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生花のこと

回答数回答 1
有り難し有り難し 17

はじめまして。よろしくお願いいたします。

生花をお供えしておりますが、このごろは花が痛んでいく様子を見るのが悲しくてなりません。当たり前のことなのですが、悲しいです。

表から見てまだまだきれい、大丈夫だと思っていたのに、花の裏はもうすっかり変色してしまっていたことがありました。亡くなったときのことを思い出し、とても寂しくなりました。

水をかえ、茎を切り戻しながら、できるだけ長くそこにあって欲しい、行かないで行かないでと思ってしまいます。
こんな気持ちで花をお供えしていては供養にならないでしょうか。時間が経てば感じ方も変わってくるかとは思っているのですが…。

うまくまとめられず申し訳ありません。よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

花を供えるというは

「お香をそなえるというは諸行無常の理をそなえるなり 香の煙も無常を示し 我が身心もまた無常なることを覚するが為なり 共にこの仏のことわりを分かち合い 真実の道理に目覚め正覚・悟りに導かれゆく功徳を分かりあう故に 供養(ともに養い合う)と申すなり」了叡語録より

花を供えるというも、また香りをそなえる事であり、無常無我の理(仏の教えの道理)をそなえている訳です。ただ花を供えている人が多いですが、それを死に仏教というのです。
仏のやすらぎの心を、無常、無我、空なる様子を、花の美しさ、香りが、さまが象徴している訳です。
花を供えるという事は、そういう人間的なはからいを卒業してゆくための仏道の道理を味わうことであります。
花は泥の色にそまらざる心 不染汚 無執着 空華なるさまです。
人間の考えや感情を超えて、存在しているのです。
あなたにとっては「枯れて哀しい」と映るかもしれません。
他の方にとっては「アラ、そろそろ変え時ネ」で済んでいる人もいます。
私は毎日、庭掃きに追われていますが枯れゆく落ち葉を「かなしい」と感じた事はありません。しかも、おそらくそのお花の質量の数百倍の量を取り扱っています。
思いに騙されてはいけません。
あなたが、その花の枯れたさまを観て、おとろえ、滅、消えゆくことを(観)感じただけのことなのです。それは考え越しに物事を眺めた無明の煩悩というもの。
花屋さんが、花を観る時にそのように観るでしょうか。もしそうであれば花屋さんは日々レジ打ちで暗い表情で、元気がなくしおれているでしょう。
あなたもその花を観て、そう思う一秒前まではそんな事をこれっぽっちっちも考えていなかったはずです。
それが、人間の観念の眺めなのです。
花を観て美しいと思うもの
ねたましいと思うもの
めでたいと思うもの
もの哀しと思うものあり
花は人の思いを超えてただ咲き、ただ枯れるのみ。 喝

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答をいただきありがとうございました。
喝を入れていただくのがこんなにありがたいものだと今まで知りませんでした。なんだかふわふわとして、どの方向を向いたらよいのかわからなくなっていたのです。お言葉を読みながらもまだ涙が出てきます。執着を手放すことができません。人間的なはからいを卒業するのは私には難しく、時間がかかりそうですが、いただいたお言葉をこれからも味わいながら、少しずつでも学んでいきたいと思います。

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