どのようにご供養したらよいのでしょうか…
精神科の看護師をしています。
ずっと心に引っかかっていること、そう思いたくないですがそれが原因…?かとも思えてしまっているできごとも現在起きていて、でも身近でこのようなことを相談できる専門の方がいないので、悩んでいます。こちらのサイトをみつけ、相談してみようと決意しました。
担当していた患者さんが、治療を始めた矢先に亡くなってしまいました。(原因は医学的に説明できるもの)
その患者さんが治療を選択したり、治療を受けられる手配を整えるのを、担当である私は看護師としてできることはしようとその時は全力であったのは、誓ってうそではありません。
ただ、亡くなったあとで、専門的な部分にもなってしまうのですが、私の行った言葉がけや行動でその治療に患者さんが望んだならば、結果的にこの患者さんの寿命を私が短くしてしまったのだと思えます。もっとしっかり日頃から勉強する姿勢を持ち、知識を持ち、情報を集められていたならば、別の選択肢を選ばせてあげられたのではないか、それをできてこその看護師だと思います。精神科であるならばなおさら、なのです。
だから、その患者さんは、そのようなことを思う方だとは思っていない反面、私のことを責めていてもおかしくないと思います。
そしてさらに私は、この仕事をしているにも関わらずご遺体を目の前にするのにはいつも怖さみたいなものがあり、上記の経緯もあり、この患者さんへ最後にあいさつができたであろう霊安室にも、足を運ばなかったのです。最後にごめんなさいと、ちゃんと伝えず、お見送りも避けたのです。
後悔しています。
この患者さんへ、今できるご供養があるならば、どのようにさせてもらえればよいのでしょうか。お墓参りやご自宅に行くことは、難しいです。
教えていただければありがたいです。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
最善を尽くしたならよし!
ご質問拝読いたしました。
愚僧は、坊主がメインですが、
骨接ぎとして患者さま
を診ますし、
精神科PSWとして、
お話を聞くこともあります。
主に知的障がいですが。
実際難しいでね。
対応に苦慮するケースは、
多々あります。
坊主ですから、
同然、ご遺体と対面し、
ご遺族の皆様とお話いたします。
昨年実父を亡くしました。
90歳を超えており、
天寿を全うしたと言えますが、
特に疾病があったわけはなく、
死亡原因は、老衰になります。
最後の最後まで、
父の回復を祈っておりましが、
傾眠傾向が強まり、
酸素呼吸を行いましたが、
特に延命措置は行わず、
息を引き取りました。
いろいろな思いが
去来しました。
回復を信じて祈った。
また声がけもしました。
病気はないのだから、
まだまだ生きられる。
気力を振って!
がんばれ!
しかし叶いませんでした。
眠るように往生しました。
世間的には大往生でも、
悔いが残りました。
ある時に、
ふと思ったのですが、
これだけ真剣に祈ったのに、
亡くなったのだから、
これは天命であったと。
医学的には、
存命措置は可能でしたが、
敢えていたしませんでした。
本人が生前望んでおりません
でしたので。
正解などありませんよ。
精一杯生きて、
天命をいただいた。
人の生死は、
人智を超えているように
思います。
ご遺体と対面することの多い
私ではありますが、
実父の死を通じて、
天命をいただく、
と言う思いが確信となりました。
前日、お葬儀を勤めさせて
いただきましたが、
葬家の皆様に、
そうお話させていただきました。
儚い人生であるからこそ、
我々は精一杯に、
今を生きていくべきなのでしょう。
後悔ではなく、反省を
反省を教訓として、
今は活かしていく。
それが、
先に亡くなった方への
何よりの御供養、
手向けであると、
思いますよ。
前をしっかりと見つめて、
今日を生きてください。
ご活躍を祈念いたします。
この初心を大切に
こんばんは。ご相談を読ませていただきました。そして、あなたが現在のお仕事に、とても真摯に向き合っておられるのを感じました。
私たちは皆、不完全なままで仕事についています。これは「現場に立つには十分要件を満たしているが、最高完璧ではない」という意味です。私たちも、お葬儀に行くには「お経や儀式はきちんとできるが、すべてのご遺族に安心を提供できるとは限らない」ままでお伺いするのと同じです。
そこまでは皆同じ状態。ドクターでも高僧でも、最初は駆け出しです。
ですが現場にあって、どれだけ伸びていくかは、その人の意思や心がけによります。さらに、その多くは失敗や悔しさ、自分に対する見方の厳しさによります。
あなたが今できる精一杯をしているか。問うことはその一点です。その点、あなたは良くやったと感じます。後悔していることも含めて。
ですから、この心がけを忘れずに、今後研究努力して、新たなご縁のもとで精一杯のことをされるといい。今はお会いできずとも、思い出した時に心の中で謝りご冥福をお祈りすればいい。私はそう考えます。
現代人の不幸は、機械を使いすぎて、自分までそのように見てしまうきらいがあることです。店頭に並ぶスマホは、既知の問題点をすべて潰してから出荷されます。そういうものばかりに接していると、最初から完璧で当たり前…と思いがち。けれど私たちは機械ではないのです。まだ…いつまでも不完全なまま社会で活動しているのです。
だから「ごめんなさい」「ありがとう」という言葉があり、それを使うことでお互い様の世界を生きているのです。
ご遺体が何となく怖いというのも、正常な感覚です。私も父の遺体を前にして、「こうもできたのではないか、あの時こうすれば良かったのでは」とさまざま後悔しました。そして身体がモノへと変わってゆく様子も、言語化はできませんが観察し続けました。
繰り返しになりますが、物事はすべて現場で、その時に起きているリアルなものです。その場に自分がいて、その時精一杯であったなら、一つの体験としてピリオドを打てるような気がしています。
スマホは何年か経てば劣化し機能が足せなくなりますが、人間はいつまででも成長できる。そのありがたさも、いのちの一つの側面だと思います。
お名前も何も存じませんが、私もその患者さんのご冥福をお祈りさせていただきます。