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人間は何様ですか

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いつも拝見しています。
タイトル通り、人間は何様なのでしょう。

例えば、道路で轢かれている猫や野生動物。
車を作ったのは人間。
地球は人間のものではないのに、どんな動物だって生きる権利があります。なぜ動物を巻き込まないように道路整備をしないのでしょう。エゴでしかないと感じます。
道端で轢かれて亡くなっている仔を見るたびに胸が潰れそうです。

例えば、動物実験。
なぜ人の医療、化粧品のために動物実験が許されるのでしょう。
命の重みは同じはずなのに。
人間のため、当たり前のように消費される命はどんな綺麗事を言っても納得しないはずです。

例えば、ダウンジャケットやリアルファーや毛皮のコート。
なんの配慮もない残酷な方法で羽毛をむしり取られる鳥、生きたまま殺される動物。
どんな酷い目にあっているかも知らず、人間が暖かく過ごしたいだけ、オシャレに見せたいだけの理由で買う無知な人たち。
代わりのものなんていくらでもあるのに。

まだまだあります、いったい誰が許したのでしょう?
人間はひどいです。
胸が痛いです。
すみません、私はこの世に神も仏もないって思います。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

権利も納得もない

こんばんは。去年売れた本で「サピエンス全史」というのがあります。確かアメリカ大陸の化石を調べた結果、サピエンスが入ってから、いた動物の半分以上が絶滅した、という歴史が紹介されていました。
愕然としますね。このままでは本当に、人間が地球を破壊し尽くすかも知れません。
あなたは「代わりはいくらでもある」と仰いますが、どこまでいっても「他者のいのち」を奪って生きているのが私たちです。例えば、綿花だってね。
じゃ、原始時代のもっと昔、言葉も持たず小型の哺乳類に戻れるかと言ったら、それもできない。あっという間に大型肉食獣に捕食されるでしょう。その時「私の権利は!」と叫んでもダメですね。
では、地に足をつけて考えるに、何ができるか。
生きるのに無為な行動は控えるべきですね。スマホもネットも不要。一度手に入れた衣服は直して何年でも使う。フードロスはゼロにする。
私がそれらをできるか、と問われたらできないです。でも、心がけて行動できることはある。せめてそれを見つけて行うのが、私の精々ですよ。
神や仏がいるかどうか?いたとして、その仕事は何なのだと思っていますか?それを嘆くよりも、「仏様の真似をする」自分であるかが大切なのではないでしょうか。
仏教では、「人間は、正しく生き修行すれば、仏になれる」と言っています。でもどうやら、お釈迦様以降、まだそういう人はいないようです。いるのは、「仏様の真似をしている」人。なりたいと思っている人。
仏様にならなければ意味はないとお考えですか?せめて、できることをし、近付こうとする。自分の寿命の中で完成するかは分かりませんが、自ら行い、他人にも「できることはしてごらんよ」と勧める。
道端で猫が轢かれていれば、せめて歩道に寄せ、役所に連絡する。できるなら連れて帰り、墓地に埋葬する。私はそれを心がけています。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

神も仏もいないならあなたは何をするか

だから神や仏に変わってでもこの世に善玉菌をどんどんお生み出さないといけないということがわかるはずです。
そういう志を起こす人間に「あなたが」なることです。人に助けなんぞを求めて待っていても助けに来ちゃくれん。この世に足りないのは真の人間性、真の宗教心。
カネカネ、自分自分した心を増長させる現代の便利文明こそNEO新興宗教なのですよ。
そこから早く脱却して、真の人間性に目覚めさせる必要がある。
それには究極のシラフさが要求される。
究極のシラフでないと、あなたも「他の人間はどうしようもないやつらばっかりじゃ」と他人の言葉ばっかり問題にして自分の心の向上をしなくなる。
まずは人はどうでもいいのです。
あなたがそういう苦しい生き方をしなくなること。
そして究極のシラフに目覚めて、智恵を慈悲でもって世の人たちを助けてあげて欲しいと思います。
さて、この究極のシラフというのは仏教においては悟り・正覚などと呼んでいるそうな。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。
私自身、微力ではありますが、そういう事への抵抗を示す行動はおこしています。
が、やはり資本の論理には焼け石に水であり、虚しいのです。

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