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進学先について

回答数回答 3
有り難し有り難し 10

進路で悩んでいます。進学することに決めたのですが、東洋大学と京都精華大学(人文学部付き芸大)のどちらにするか迷っています。
東洋大学の方が知名度や環境が整っています。しかし、京都精華大学には心の底から「この先生の下で学びたい」と思える方が教鞭を執っています。
就職や学歴で考えると東洋大学ですが「学びたいことが学べない」と後悔しそうです。京都精華大学も、学びたいことが学べても、後々響くのではないかと不安です。
本来は、お坊さまに相談する話ではないでしょうけれど、学びたい内容が東洋思想の、仏教と社会がどのように関わってきたかについてなので、質問させていただきます。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

楽しそうな方へ

イヤ決して「楽な方へ」ではないのです。知的興奮とかワクワクが得られると感じる方へ。
就職については、正直言って「どちらがどれだけ優位なの?」っていう感じです。某大学、うちの近くなので、来てくれたら面白いけれど。
でも畢竟、「大学時代で何をしてきましたか」と問われたとして、サークルでもない、ボランティアでもない、ましてバイトでもなく、「ぜひ、と思った先生の元で勉強しました」は、会社へのアピールになるような気がしますよ。忠誠心とか、見たいでしょうから。
私は採用「された」のはバイト関係しかありませんが、採用「する」側の立場としてみれば、「好き嫌いしない」とか「これを一生懸命やってきた」とか、それこそコミュニケーション(という名の聞く耳を持てるかどうか)とか、を重視します。その一次ラインの次に成績です。
なので、その先生が4年間いらっしゃるのが確定であるなら、ぜひ京の都に一票。

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おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

あなた自身が学ぶ意欲があるのなら

あなた自身の学ぶ意欲が何より大切です。もし迷った時に導いてくれる方がいればそれは良いことだと思います。

道元禅師は、正師を求めて中国にまで行きました。何年もかけて、正師に出会いやっとの思いで、自分の求める仏道を極めることができたのです。

あなたが、求める道に師が必要なのであればそのようにすればいいと思います。
しかし、あなた次第で、学べるのであれば、それはどちらでもいいのではないですか。
しかしながら、大学の名前が知られているからという理由で行くのであれば、あまり意味はないかもしれません。その大学で何をするのかを明確にした方がいいと思います。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

そこで何を学ぶか

人間学ぶことは人間のことが一番です。
自分を知る事。
仏教は自分を知る教えです。
自分を知るには自分から学ぶのが一番。
そして自分を知った人から学ぶのが一番です。
何処に所属しても学びでないものはありません。
これを忘れなければどこであっても学びになります。
学べたかな?
ぶっちゃけ学びでない時なんてありませんしねぇ。
仏道をならうというは自己をならふなり。
自分意識、自己意識を持ち込まなければ、すべてが学びになるのです。
反対にどんな素晴らしい老師の下でも自分がありすぎる人は事前設定が強すぎて何も学びにならない。インテリさんほど学びが下手な人が多いというのはこの為です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

皆様助言ありがとうございます。

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