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ツォンカパと戯論寂静

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中論では涅槃を「吉祥にて戯論寂静なる縁起」と表現しています。
しかしゲルク派の開祖のツォンカパは、勝義において戯論寂静を唱える中観論者を
「摩訶衍の教義に等しい」と痛烈に批判しました。

凡夫の素人目から見ると、ツォンカパの二諦解釈は『中論』の涅槃解釈と対立するように思えますが、
これは一体どういう風に解釈するのが宜しいのでしょうか?

2015年12月7日 2:22

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

中論の二諦とツォンカパ大師の二諦について

akbcde様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

ツォンカパ大師の世俗諦と勝義諦の二諦の解釈には、大きく分けても三通りございますため、どの二諦のことについて言及されているのかが少し分かりませんので、お答えしにくいことでございますが、まず、中論の帰敬序における「吉祥にて戯論寂静なる縁起」の記述は、あくまでもそのことをお説きになられた仏陀に対することにて、「戯論寂静」=「涅槃」=「勝義諦」へと向かわしめるための善き縁起(因縁)、つまりは「八不中道」、「四聖諦」をお説きになられた仏陀への礼賛であると考えることができます。

ツォンカパ大師が「摩訶衍の教義に等しい」と痛烈に批判したのは、「無分別」、その意味合いとして、特に「無念無想」が悟りであるという考え方に対してであり、それは、悟り・涅槃へと向けた「善い無分別」があれば、堕落・邪道となる「悪い無分別」もあり、後者に対しての批判であると考えるべきであるかと存じます。

以前にも「無分別」について少し述べさせて頂いているのですが、要は、無分別における善い無分別(空性了解)と悪い無分別(悪取空見、虚無への陥り、縁起(因縁果)の理の破壊など)があり、仏道においては、善い分別・無分別を慎重に選択していきながら、確かな修行・修習を進めていかなければならないというのが、現時点における拙見解となります。

とにかく、ツォンカパ大師の二諦各解釈も、中論における二諦に関する下記の各偈の内容から逸脱しているとは考えにくいものであるかと存じます。但し、世俗諦についての解釈には下記の第八偈の邦訳から推測される内容とは少し異なるところがございます。その点は注意が必要になるかと存じております。

中論「観四諦品」(第二十四・第八偈~第十偈)

『二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。』

『およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。』

『〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。』

川口英俊 合掌

2015年12月8日 12:36
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有り難し
おきもち

川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

質問者からのお礼

小生のツォンカパの二諦説についての理解が乏しい故、
まだまだ至らぬ所も多いですから、これからも精進させて頂きます。
回答有難う御座いました。

「仏教全般」問答一覧

仏教をもっと学ぶ方法は?

こんにちは。 以前Googleで自分の悩みを検索したところ検索結果にこのサイトが出てきたことがあり、それ以来hasunohaを毎晩のように拝見しています。お気に入りのお坊さんをブックマークしているほどです。 生まれた時から仏教徒で、お盆やお参りなど特に考えずそのマナーに従って生きてきましたが、一方で神や仏、また心霊などの類は一切信じないたちです。 しかしながら倫理哲学の勉強は非常に好きで、現在もっとも興味があります。 きっかけは数年前心身共にとても傷つく出来事があり、以来リラクゼーションやアロマ、音楽など、私生活で自己を労る環境を整えていきました。しかしそれらは頭の中、つまり思想の面では自分を疲労から救ってはくれず、そのとき仏教が自分にとって非常に重要なものではないかと気づきました。(軽率な発言続いており誠に恐れ入ります。。) hasunohaをみているうち、信じるか信じないか、お祈りが届くか届かないか、極楽浄土に行けるか行けないか以前に、自分で自分を生きやすい方向に調整していく、大変学びの多い学問でもあることを理解しました。 長くなりましたが質問したかったことは、仏教を学ぶ上でビギナーの私におすすめできる学習方法を教えていただけませんでしょうか。 下記何でも構いませんので、回答いただけると嬉しいです。 ・おすすめの著書(専門用語が多すぎない、噛み砕いてある、原版の理解にふさわしい) ・近所のお寺に通うことも考えたが、用もないのに門を叩いて説法してもらうことなどはできるのか? ・合宿のような形式で学ぶ方法はあるか。どうすれば受けられるか。ある場合、実家は曹洞宗だが宗派を超えても学習はさせてもらえるか ・↑に似ているが、短期的に修行を受けることはできるか。どのお寺でもできるのか?できるお寺はどうやって探すのか ・その他いい方法があれば 可能ならば僧の方に直に毎日少しずつお話を受ける形式が望ましいですが、自分の周りでそう言った人は見かけないし難しいのでしょうか... よろしくお願い致します。

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どちらの宗派、教えを信じれば良いのか

初めて質問を投稿いたします。 るると申します。 私は学生時代うつ病を患い、生きていくことのつらさ苦しさと死への恐怖に悩み、救いとなる教えを求めて父方の宗派のお寺である東本願寺へ参りました。 そこで、どのような人間であってもすくい取ってくださる阿弥陀様の教えを聞き、何があっても必ず助けてくださる存在があるということに強い安心安堵感を得ることができ、その後は真宗の教えを聞く機会を定期的に作り心の支えとしてきました。 数年後、大学は無事卒業し就職すると私は非常に忙しい部署に配属され、激務と過労で再びうつ病の兆候が出てきて頭の中があらゆる雑音でいっぱいになっているような感覚に陥りました。 その時心の支えとなる教えをまた求めてお寺に行こうと決心したのですが、何故か今回はいつもとは異なる直感のような感覚で母方の宗派のお寺である永平寺に参りました。 永平寺で禅の一端を体験し、その後禅に関する本を読む中で、あるがままを冷静に見つめ自らの内の欲や煩悩を統御する教えを学び深く感動し、禅の教えをこれから生きていく中で実践したいと思いました。 前置きが大変長くなりましたが、二つの宗派の教えと出会いわたしは今どちらを信じたら良いのか迷っております。 煩悩を否定せず阿弥陀様が必ず救うとする真宗か、煩悩を統御し坐禅を通して自ら悟りを目指す禅宗か、全く異なる教えに触れどちらも捨てられないと悩んでいます。 両方を信じる道もあるのでしょうか。 拙い文章になりましたが、僧侶の皆様から何か教えをいただけたらと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

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