ツォンカパと戯論寂静
中論では涅槃を「吉祥にて戯論寂静なる縁起」と表現しています。
しかしゲルク派の開祖のツォンカパは、勝義において戯論寂静を唱える中観論者を
「摩訶衍の教義に等しい」と痛烈に批判しました。
凡夫の素人目から見ると、ツォンカパの二諦解釈は『中論』の涅槃解釈と対立するように思えますが、
これは一体どういう風に解釈するのが宜しいのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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中論の二諦とツォンカパ大師の二諦について
akbcde様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
ツォンカパ大師の世俗諦と勝義諦の二諦の解釈には、大きく分けても三通りございますため、どの二諦のことについて言及されているのかが少し分かりませんので、お答えしにくいことでございますが、まず、中論の帰敬序における「吉祥にて戯論寂静なる縁起」の記述は、あくまでもそのことをお説きになられた仏陀に対することにて、「戯論寂静」=「涅槃」=「勝義諦」へと向かわしめるための善き縁起(因縁)、つまりは「八不中道」、「四聖諦」をお説きになられた仏陀への礼賛であると考えることができます。
ツォンカパ大師が「摩訶衍の教義に等しい」と痛烈に批判したのは、「無分別」、その意味合いとして、特に「無念無想」が悟りであるという考え方に対してであり、それは、悟り・涅槃へと向けた「善い無分別」があれば、堕落・邪道となる「悪い無分別」もあり、後者に対しての批判であると考えるべきであるかと存じます。
以前にも「無分別」について少し述べさせて頂いているのですが、要は、無分別における善い無分別(空性了解)と悪い無分別(悪取空見、虚無への陥り、縁起(因縁果)の理の破壊など)があり、仏道においては、善い分別・無分別を慎重に選択していきながら、確かな修行・修習を進めていかなければならないというのが、現時点における拙見解となります。
とにかく、ツォンカパ大師の二諦各解釈も、中論における二諦に関する下記の各偈の内容から逸脱しているとは考えにくいものであるかと存じます。但し、世俗諦についての解釈には下記の第八偈の邦訳から推測される内容とは少し異なるところがございます。その点は注意が必要になるかと存じております。
中論「観四諦品」(第二十四・第八偈~第十偈)
『二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。』
『およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。』
『〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。』
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
小生のツォンカパの二諦説についての理解が乏しい故、
まだまだ至らぬ所も多いですから、これからも精進させて頂きます。
回答有難う御座いました。