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父のために何故こんなに苦労しなければならないのでしょうか?

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50代の父の話です。
昔からお金にルーズでよく家族間で問題になりました。片親なので問題の度に祖父と祖母が解決してきました。(母親は2歳の頃に離婚しています。)
具体的には
・パチンコ中に車に私を放置(小学校低学年時)
・自分の戸籍を借金代わりに売っていた(中学時)
・私の大学の学費が払えないと納入期限3日前に連絡があった
・私がとある病気で入院した際も入っていた民間の医療保険を解約していて入院、手術費が払えない
など。気前が良く見栄っ張り、ただの良い人、悪い奴に騙されやすい、性格的には真面目で優しい。
そんな父が昨年タチの悪い金貸しに引っかかり、自分と私たちの会社にも嫌がらせの電話や追い込みがすごく、父は30余年務めた会社を退職する事になりました。私の会社には救急車を呼ばれたりなどの嫌がらせもありました。
退職した後もタバコの火を他人の車に押し付け一件は示談、もう一件はタチが悪く、脅された挙句退職金300万を丸っと渡してしまいました。以降私がお金を管理し生活費だけ渡す生活をしています。
祖父は他界、祖母は足も悪くなり今は頼るところが私や叔父になってきています。私は大学で都内に出てきてから順調に仕事やプライベートを楽しんでいましたが、心配していた父の問題がこんなに早く訪れるとは思ってもいませんでした。父は地元近くに一人暮らしで住まわせています。
まずは父の自立が優先で、行政や精神科に通わせてなんとか一年間やってきましたが仕事を探す気力がないのか、毎日ぼーっとする生活を送っています。
父は親の自覚が全くなく、私や叔父に迷惑をかけていることにさほど罪悪感も無いようなのです。私は、周りの人が仕事やプライベートを充実させて楽しい人生を送っている中、なぜこんな父親とも呼べないようなロクデナシの親の為に、しなくてもいい苦労をしなければならないのでしょうか?同じ苦労を味わっている友人や先輩に相談しつつやって来ましたが、頑張るモチベーションが全く湧きません。ひどい時は父親なんて死んでしまえばいいのにという気持ちになります。どのような心持ちでいれば辛くなくなりますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

父親からの精神的 空間的 実質的 な 独立

勇気をもって家庭のこと、お父さんのことを話してくれてありがとうござます。
その人の立場がたまたま自分の親というだけだった、というケースは沢山あります。
自分の父親がまさにそれであるということ。
悲しいですよね。
子供を持つ親といえど道徳心、倫理観、宗教心、人権意識がない立場上だけの❝過激な❞親御さんはこの世に実にたくさん存在しています。
ぶっちゃけ親孝行するに値しない子供からみたら悲しい親というものは本当にいるものです。
あなたが自由になるためには、まず人間として、生まれは選べないし、人の親と比べられないからまず、ポジティブに父親を分離し、自分をドロ沼ネガティブ世界から救出してあげることです。
ポジティブに父親の沼から脱却するだけでいいです。
そして、一旦距離を置いて、離れ過ぎず近すぎず眺めてみましょう。
ああ、この人は、今までは私「の」父親という立場としてみてきたけど、一人の【存在】なのだなぁという所でお互いの立場の位置修正をしてください。
離れ過ぎるというのは、嫌う、ヘイトすることです。
親を嫌うと親は自分の一部でもありますから、自分を否定するに近しいのです。
だから、親があまりにもぶっ飛んでいても、嫌わない拒絶しないで、距離を置くだけにしてみてください。
精神的にも、空間的にも、実質的にも、程よい距離感を。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

あなたが選んで生まれた

この男女を両親にしよう。あなたが選んだのです。自分が背負った罪を償うために両親を探そう。どうやらこの男女の子として生まれたならば罪を償うことができそうだ、よし!決めた!
ということです。

罪滅ぼしのために人はみなこの世に生まれてきているのですから、辛いのは当たり前。
あなたは前世で、今の苦しみと同じ苦しみを誰かに与えていたのです。こんなに苦しい思いをさせていたのか、と思うことです。
だから今は辛いけれども、これで前世から積み重ねてきた罪が償える、そう信じて罪滅ぼしから逃げないことです。

大変厳しいようですが大なり小なり罪を背負っております。
人間がこの世に生まれた理由、目的はただひとつ、辛い目に遭うことなんです。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

質問者からのお礼

丹下 覚元(たんげ かくげん)さん>
お返事を下さりありがとうございます。またご返信遅れてしまい申し訳ありませんでした。
今の状況からポジティブに自分のことを救ってあげること、大変心に染みました。
今は辛い状況なのですが父が自立出来るよう出来る限りの手助けをしてあげようと思います。
いつも深く考えすぎて、これからどうなってしまうんだろうという不安があるのですが、
自分のため、自分のためと思って動いていこうと思います。

四次元 法華塔さん>
自分はなかなか罪滅ぼしから逃げないことという考えまで達することが出来ないのですが、お返事くださりありがとうございます。

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