いつも失敗してから気づく。
小学生の頃から
生きているのがとても怖くて、
哲学や仏教、歎異抄とか
聖書とか読み漁りました。
何度も読み返してたりしたのですが、
いつも、他人を依存したり、失敗や、恥をかいたり、他人を傷つけたり、取り返しのつかない何かを失ったあとに、
ああ、そういえばあの人がこういうのは失敗を招くから気をつけなければならない。とかいてあって何度も本で学んだのに、
何も生かせなかった。何もわかっていなかった。私は何のために読んできたのだろうと思ってしまいます。
最近は知識や哲学だけでは、
なんにも自分を癒してくれないと
自暴自棄になって、本を全て捨てました。
自分を幸せにできるのは自分だけで、本や他人ではないと分かってるのに、何度も失敗します。
いやいや、誰だって失敗してから成長するんだよ?!みたいなことを言われても、なかなか普通の人は失敗しないことをしたり、人からは、普通はそんな失敗しないでしょと嘲笑われたり、呆れられたり、引かれたりします。
失敗してもいいんですが、
なんていうか、いつも情けない失敗で困ります。なんで、みんな楽しく笑ったり、うまく生きていれるんでしょうか。
私はみんなが、うまく生きてるようにおもえてうらやましいです。
たとえ人が悩んでいても、人間らしい悩み?(恋愛、仕事とか)で、私はそもそもなぜいきてるの?みたいなわけわからない悩みに陥るので普通の悩みを持ちたいなと思ってしまいます
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「普通」はないのです。
こんばんは。様々な経験をされ、言葉を求めて来られたとのこと。それは良い探求をしてきたと思いますよ。
他の方のhasunohaでの問答を見ていると、「何故?どうして?」と安易に答えを聞き出そうとしている方がいるように見えませんか?本人なりには、もちろん苦しんでいるのでしょう。だけれど私から見た時でも、直感的に「甘いなぁ」と感じる方もあるのです。甘いなぁと感じるけれど、多分本人の目から見える世界は、書かれているとおりなのだろうと。
さて、「後になって思い当たる」、それが正しい「導きの言葉」の使い方です。転ばぬ先の杖ではないのです。学校で教わるような上っ面に、転んだ時はじめて「実感」がくっつくのです。言葉が肉体化する、血肉になるとも言えます。「何も分かっていなかった」は、イコール「いま分かった」ということであり、実は素晴らしいことなのですよ。昔の人が苦労して発見し、歴史の波にもまれても生き続けてきた事柄と、あなたの体験が繋がったのですから。私のいる浄土宗なんて、「人間、欲望からは離れられないよね」というのが土台ですから、「ああ、俺も駄目な奴だなぁ、法然さんの言ったとおりだなぁ」と、思い知らされるばかりです。
「人間は、そもそもなぜ生きているの?」これを、「普通じゃない」と評する人がいるのは確かです。しかし、「その問いを無視している」「その問いにたどり着く程、人生を深く生きていない」のだろうと思います。あなたは「普通」になりたいのですか?「普通である」ことに何の価値もありません。日本人の「普通」がシリア人の「普通」ではないのでしょう?
ただ、「我ながら情けない失敗」があって、自分に嫌気がさしている事については、「なぜ生きているか?を考えているから、情けない失敗をする」に繋がってはいないと思いますよ?しじゅうそれを考えていて、電信柱に頭をぶつけたとか?
それはさておき、あなたは「自分にとっての一生のポリシー」を得るに近い立場にいると思います。ポリシーなんて、本当に1つか2つです。人生掛けて学べることは。
いま取り敢えず、読んできた本の中で、覚えている言葉は何ですか?それを大切にすることをお勧めします。
心は猿のように飛び回る。心の一旦停止が安全。
昔の偉いお坊さんが、人の心は、木の枝から枝へ飛び回る猿のように、落ち着きなく動きまわると言われました。
つまり、人間は生まれながらに不注意でうっかり屋さんなのです。
私もそうです。
頭ではわかっていても、何かに夢中になって気が付けば失敗しています。
このサイトでの私の回答でも誤字脱字だらけです。
だから偉そうなことは言えませんが、「心の一旦停止」は有効かも。
車や自転車が危険が予想される交差点に入るときに、一旦停止することでより安全に通行できます。
心(感情)も素早く動きますが、たまに一旦停止して、あるいは動画のコマ送りのように、一つ一つの決断や行動をスローにしたほうが安全でしょうね。
でも、心は怠け癖(さっさと済ませたい)があるので厄介です。
瞑想や念仏などには、心を一旦停止させる機能もあります。