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お坊様でこのような境地に到達している方はいらっしゃいますか?

回答数回答 1
有り難し有り難し 19

「どなたか凡夫成仏した人は知りませんか?」では皆さん大変お世話になりました。ありがとうございました。相変わらずブレずにキモく楽しく生きています。

プロフィールにある経験をしてからは、おかげさまでいろいろと経験しながら日々精進させていただいています。新しい発見があるたびに感動しています。

現在の段階では、このくらいの境地が仏への入口ではないかと感じていますが、お坊様の中では普通なのでしょうか。

①辛苦の多いこの世こそ天国(浄土)であり、幸せに満ち溢れた世界である。私は何があろうともずっと幸せに包まれて生きていける。

②私のすべては「おかげさま」でできている。この世のあらゆるものから常におかげをいただいているので、生きていても、この世から去っても、この世のすべてに「ありがたし」と感謝し続けたい。

純粋な気持ちで森羅万象に感謝しつづけて約1年、ようやくこの境地まではたどりつけたのですが、まだまだ全然未熟なのかなと思いつつ、日々精進を続けていきたいと思います。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

hasunoha~泥にまみれたこの世界こそ素晴らしい

このサイトの題名でもある「ハスノハ」
なぜ、この蓮が仏教のシンボルであるかご存知ですか?
実は、蓮は仏さまが私たちをあわれみ想ってくれる「慈悲」の心を表しているんです。

私たちの世界は、煩悩という泥にまみれています。
目の前も見えない泥の中で、私たちは正しい道を失ってさまよっています。
そんな中、私たちを救ってくださるのが仏様の慈悲の心なんです。

慈悲の心は、あたかも蓮のように、かたいつぼみで私たちを包んでくれています。つぼみのなかにいるからこそ、私たちは煩悩の泥に汚れずにいることができます。
そして、いつしか蓮の茎は伸びて、けがれのない水面=仏様の世界に至ることができるのです。
しかし、実は蓮というのはきれいな水では育ちません。
泥にまみれた水の中でこそ、蓮は美しく咲くのです。
煩悩というのはまるで害悪かのように思われがちですが、実は煩悩そのものには善も悪もなく、森羅万象と同じく、ありのまま存在しているだけなんです。

そして、その煩悩の泥の中に在って私たちは生き、そして泥の栄養を得て蓮の花は水面へと伸びてゆくのです。お釈迦様が在家時代の贅沢がなければ苦行の末の悟りもなかったように、悩みがなければ考えることもない、煩悩が無ければ解脱もない。苦があるから楽がある。
泥にまみれた世界であるからこそ美しい蓮の花は育ちます。
極端ではいけない、それも「中道」だということです。
蓮の花は、そんな「煩悩の中で迷わないために私たちを導く仏の慈悲」のシンボルなんです。

お釈迦さまは、煩悩にまみれたこの世界にあって、入滅の間際に「それでも人生は素晴らしい」とおっしゃいました。仏教は、苦を離れる哲学であり、生命賛歌です。

あなたのおっしゃる通りの境地は、仏教の根幹であり、また極地でもあると言えます。

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

不悪口院 恵成様
ありがたいお言葉をいただき、心から感謝申し上げます。
けがれの無い水面を越えた蓮の花からみた水面の景色は、
きっと宇宙から見た地球のようなものだろうと感じています。

精進している中で感動しているのは、地元で奇跡的な出会いをした方のおかげで
自分自身の身体、その中にある「内なる宇宙」、そして自分の感情にもきちんと
「おかげさまでありがとう。」と感謝できるようになったことです。

どんなに辛く苦しい気持ちでいても、1日の終わりには
「今日を乗り切ってくれて本当にありがとう。」と
自分も労わって暮らせたら、楽になれると実感してます。
純粋な感謝の気持ちは、外向きにも内向きにも染み渡ります。

それから、幸せに包まれるというのは、生きているだけで良く
ほのかにあたたかく、やさしく、やわらかく、
ほんのり明るい状態で安らぎを感じることでした。
皆さんのおかげで精進できています。あらためて感謝申し上げます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ