信用できない
お坊様を信頼できません。
というのも、祖父が亡くなった時に、葬儀会社から紹介していただいた住職の方に、法事をお願いしたのですが、1時間遅れて某走り屋漫画で有名な86のカスタムでユーロビートを爆音で流しながら来られました。
趣味でどの車に乗るかは個人の自由ですが
外から聞こえるほどの爆音で改造車で法事に来るには不向きかと思いました。
余りにも徳を感じられず、次回から自宅の近所のお寺にお願いしたのですが、入婿の住職さんで住職さんの不倫が原因で、離婚されたのでどこかへ行ってしまいました。
次にそのお寺に来られた住職さんに、引き継いでお願いしたのですが、2時間経ってもお越しになられないので電話したところ、忘れていたとの事ですが、通話もままならぬくらいのパチンコ屋の音が聞こえました。
パチンコしてて仕事に遅れたらクビですよね?
仕事で使う車に改造車って信用問題になりますよね?
高野山にお参りした時も、坊主頭でジャージを着た若者6人が車に乗っている所を見たのですが、1人はタバコをふかし1人はダッシュボードに足を乗せ...(全員、坊主頭というだけで仏門の方かはわかりませんが宿坊に入っていきました)
私にはもうお坊様が宗教という皮を被った社会人以前の俗物にしか見えなくなってしまいました。
もちろん、真面目に徳を積まれている方もいらっしゃるでしょうが 私が10年間でお会いした方々はこんな感じでした。こうも連続で不快な印象を受けると信用出来ません。
最近では坊主憎けりゃ袈裟まで憎い状態でして
お坊様に嫌悪感すら抱きます。
私の祖父母の菩提は弔われたのでしょうか?
お経とは行って唱えればいいだけのものでしょうか?
それでもお坊様は敬うべき存在でしょうか?
私が死んだらただ火葬して頂くだけで
お経も戒名もいりません。
そこにお金を払うなら残された人に美味しいものでも食べてほしいと思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「大集」の第九にいわく
たとえば真金を最高の宝とするならば、もし真金が無ければな銀を最高の宝とします。もし銀が無ければ、鍮石・偽宝を。もし偽宝もなければ、赤白銅・鉄・白錫・鉛(錫)を最高の宝物とします。これと同じように、世の中で最も大切な宝物は仏法だとします。もし仏宝がなければ、縁覚が最高。もし縁覚なければ、羅漢が最高。もし羅漢も無ければ…<中略>
頭を丸めて身に袈裟を着た在俗の坊さんを最高の宝とします。他の九十五種の外道と比べればまだマシです。世の供を受くべし、物のための初めの福田なり。
と『大集経』というお経にあります。
あなたの落胆ぶりは心よりお察し申し上げます。そしてお怒りはごもっともだと存じます。私も僧分として身の引き締まる思いです。
しかしながら、この末法の世、無仏の時というのは、そんな坊さんたちでさえ信用するしかないほど残念な時代なのです。
そんなのは坊主どもの詭弁だ!!と、また叱られそうですが、残念ながらそういうものだとも言えるのです。それほどまでに仏教というものはスゴイものだともいえます。とはいえ、このお経を盾にやりたい放題をする坊さんはそれそのように報いを受けることにはなるでしょう。
私も肝に銘じます。厳しいご指摘、誠にありがとうございました。拝
質問者からのお礼
ご解答、ご丁寧にありがとうございます。
誤解無きよう申し上げますと、私は勉強不足ではございますが、仏教や御仏を信じていない訳ではございませんし、この21世紀にお坊様だからといって清貧、禁欲に操を立てろとは申しません。大集の第九の法典につきましても伺った事があります。
ただ、仏教の有難い教えを意に介さず、盾に取り、誠実さに欠ける行動は、五逆の大罪に値するものと考えます。(お坊様を非難する私も同罪ではございますでしょうが)私の嫌悪するは、この点でございます。
時間を守らない、礼節に欠ける。
仏門の徒でなくとも信用を失う行動です。
それでも、俗世のお坊様が至宝であると言うなれば、
私などの一市民には手に余る至宝ゆえ鰯の頭でも拝め奉る所存です。
今までお会いした、お坊様に対しましては、同じ人間であり、同じ時代に生まれた身として、忌み嫌えど恨みはしておりません。
祖父母、先祖の供養は残された私たち、遺族の祈りが弔いになると信じます。
お応え頂いたお坊様に大変失礼な発言をしてしまい、反省致しますが、正直 少し胸のつかえがとれました。
この10年のモヤが晴れそうです。
どうか、これからは良き縁に恵まれますよう、お祈りください。
最後になりましたが、重ねてお礼申し上げます。