仏教は
強姦しても仏門に下り熱心に修行に励めば誉められる。
それを批判するとまるで被害者の方が悪者かのように罵る。
仏教って強姦魔に有利な教えなんですか。
母は男に強姦されて私を生みました。 中絶は金銭面の問題で出来なかったようです。 母は分娩中「嫌!生みたくない!」と叫んでいたと立ち会った親戚が笑いながら話していました。 十月十日も生活を制限され、ホルモンバランスは狂い性格も変貌し、キャリアも泣く泣く諦めなくてはならず、激痛の中命がけで分娩、ボロボロの身体で寝る暇すらなく子育て、歪んだ骨盤は元には戻らず、一番綺麗な時期を好きなことも出来ないまま子どもを生む道具にされる。 出産は拷問です。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏教とは
はじめまして。浩文(こうぶん)と申します。
強姦魔だけではなく一切衆生が救われるようにと、
とてつもないことを誓願に
立ち上がったのが仏教なのですよ。
無理言ってかっこつけていると思われるでしょうが
どうしてもその誓願に賭けてでも救われたいという人々の思いが、長い歴史をたどってきたのです。
私たちからすれば文字通り『命綱』なのです。
仏教は一方で「本人のとらえ方次第」と説く、と信じていますから
『命綱』を元山本さんが『強姦魔に有利な教え』と捉えるなら
それを止める手立てがないのです。
ひとつ思うのは
仏教が強姦魔に有利なのではなく
仏教を利用しようとする輩がいるだけのことでしょう。
熱心に修行するとて
誉められるためではないし誉められるとも限りません。
批判した人を悪者かのように罵られることもあるでしょう。
強姦などの重犯罪もなくならないのかもしれない。
そんな絶望の世を何千年も見てきた仏教というひとつの歴史が
強姦が「なぜいけないか」
批判が「なぜいけないか」
罵るのが「なぜいけないか」
だけではなく、それよりむしろ
「『どうして』強姦しようと思うのか」
「『どういう思いで』批判しようと思うのか」
「『どうして』罵ろうと思うのか」
そこに向き合い、問い続けることに賭けたのです。
そこに解決に向かう道筋があるはずだと信じる人たちの集まりが
私たちです。
他人に対してだけではなく、むしろ自らに問いつづけるのが私たちであり、仏教です。
ここまで言葉で言ってきたことは
言うだけなら非常に簡単だと思います。
実際には、時折、命綱なのに怖くなってそれを手放そうとしてしまう身勝手さにも直面します。
しかしそれでは、お釈迦さまや阿弥陀さま、大日如来さま、日本に仏教を引受けてくださった聖徳太子さまや数々の名僧を輩出した比叡山の最澄さま、人々の暮らしを支えた空海さまに申し訳が立たないと、今はその気持ちが一歩自分を前に進めてくれているのです。
『仏教は』という問いでしたので長々と書いてしまいましたが
私にとって元山本さんのその「問い」は、簡単にお答えできるものではありませんでした。
しかしどうかお願いです。それだけつらいのでしたら、ひとつとはいえ大切な問いを、たった三行で済ませないでください。確実に深い傷を負う人が広がります。
少しでも避けたいのです。そのように思います。
追記 2月24日(土)
昨日のNHKの「モーガンフリーマン時空を超えて」という番組、テーマは人間の悪についてでした。
サイコパスや、小児への性欲等、犯罪傾向のある人の中には、遺伝的な脳の特性や、脳の病気(腫瘍)が原因の人もいるそうです。
善悪は、肉体的な「能力」に左右されるものかもしれません。
能力の高い低いで、人を恨むのは良くないのです。
たまたま善の能力が低い人が、強姦をする可能性があるのです。
被害を避けることは重要ですが、加害者を憎むことは重要ではないのです。
その番組では、アメリカの裁判の陪審員(罪を裁く側)の脳も研究している研究者が出てきました。
裁く側には、加害者側の状況(罪)は同じでも、被害者が出たかどうかで加害者への裁きを重くする、つまり感情で裁く人もいるようです。
たとえば、同じように飲酒運転で木にぶつかったケースでも、一方は木のみにぶつかった、他方はたまたま木のそばにいた子供にもぶつかったとしたら、加害者側の行動は同じなのに、結果的に人的被害がでたケースの加害者に対してだけ、裁く側が厳しい感情を持つ可能性があるそうです。
仏教は、感情では裁きません。仏教は、加害者への憎しみは持たないほうがよいのです。
誰かを憎んだり断罪するのではなく、ただ単に、お互いに加害者・被害者にならないよう努力するだけでは、ダメでしょうか?
なぜあなたは、怒りの感情中心で考えるのでしょうか?
それも、あなた自身の能力なのかもしれません。
能力は鍛えられる可能があります。
怒りや憎しみではなく、慈悲の感情を優位にするよう、慈悲の能力を鍛えましょう。
加害者も被害者も、両方を慈しむように。
追記2月24日
仏教では女性の出家も認められ、子供を産めと言うばかりが仏教の教えではないと思います。
仏教では諸行無常。昨日の私と今日の私は別の物体です。
昨日の犯罪者も、今日が善人であれば、善人である今日を誉めるのが仏教的な考え方だと思います。
質問者からのお礼
吉井さま、回答有り難うございます。
実は母親を強姦した男が以前より仏門に入っています。
ハスノハに私がたどり着いたのもそういった経緯があります。
その男がそこでかなり誉められているようで、
※途中で送信してしまいました。
その男がそこでかなり誉められているようで、あまりの理不尽さに目眩がしました。
そこでこの質問をしたわけです。
強姦とはただの犯罪ではありません。
望まぬ妊娠という最悪の結果を招きます。
それを男という生き物は全く理解していない。
やれ生めや育てや女は家庭に入っておけと言い、反論すれば我が儘扱い。
私には仏教も、その教えを利用して上からもの言う男も傲慢にしか思えません。