障害がわかり死産、自分を責め続けてしまう
叱咤覚悟での質問です。
私には娘が一人おりますが、娘を授かる1年前に死産(中期中絶)をいたしました。
第一子は、長い妊活の末に授かった念願の子供でした。
安定期に入ってすぐの頃の検診で、性別と同時に、障害がわかりました。
腕欠損、という障害でした。
周りや夫も、「あなたが大事。今回は諦めなさい。」と言い、産みたい!と泣いたものの結局障害を持った子供を育てられない、という弱さから、中期中絶を選びました。
担当医には、「産まれる前に分かることは希で、きっとお腹の赤ちゃんが教えてくれた。」と言って慰めてくれ、私自身、その子が教えてくれたことを胸に、前向きになるよう努め、一年目の命日を終えてすぐに、娘を授かりました。
幸いにも、娘は無事産まれ、健康に育ってくれていますが、未だに、罪悪感が拭えません。
そして何より、自分を信じられず、お空に旅だった子同様、娘にも何か障害を背負わせているのでは、と疑う自分がいます。
子供の頃から、知的障害などを持った人に好意を持たれたり、つきまとわれることが非常に多く、自分はそういう人を引き寄せているのでは、という恐怖心すらあり、子供が欲しくてもずっとずっと怖かったのです。
障害を否定する訳ではなく、自分はそんな強い人間じゃないし、優しくもないし、正直障害のある子供を育てる自信もないのに、やはり最初に授かったのは障害のある子で、なぜ、どうして、という考えが拭えません。
また、いつか妊娠しても、また障害を持った子を授かるのではないか、と意味もなく不安になります。
長々と書いてしまいましたが、なぜあの子は私を選んだのでしょうか。
私を選ばなければ、今頃この世に生まれて来れたかもしれないのに...。
なぜ障害のある子供が産まれるのでしょうか。
とてもとても真面目に生きてきました。
不真面目で、悪いことばかりしている友人たちが、障害のない子供をたくさん産んでいくことに、正直心苦しくなります。
産んであげられなかったこと、自分を責めること、娘に疑念を抱くこと、どうすれば私は解放されるでしょうか。
何かアドレスをいただけますと幸いです。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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前提を取っ払う
ご相談拝読しました。
ずっと罪悪感や恐怖心を抱えてこられたのですね。後悔から自分を責めてもきたのですね。そして世の中の不条理に疑問も抱いてきたのですね。
「解放されたい」との思いは誠に切実なものであるとお聞かせいただきました。あなたが解放されなければならないのは「あなたの考え」からです。あなたが抱えてこられた苦しみはあなたが世の中を「道理」に従って見るのではなく、「あなたの考え」という前提に従って見て、その現実が「あなたの考え」とあわないことで苦しんでいるからです。前提を取っ払う必要があるのです。
仏教は「道理」を説きます。「道理」とは誰にでもあてはまり、時代や法律や価値観によっても左右されない普遍で不変の法則です。
子は親を選んで生まれてきません。
自分がした事と自分に起こる物事は関係がありません。(※)
※「良い事をしていると宝くじが当たる、悪い事をしていると天災に遭う、ということはない」という意味において。
なぜ障害のある子供が産まれるかというと障害が生じるご縁がととのったからです。ご縁というのは原因・条件・環境・対象といった意味です。原因があるから結果があると説くのが仏教の道理です。
それは真面目にしてようが不真面目にしていようがなり得ます。たまたまです。たまたまですがご縁が整えばそうなるのは必然です。そしてなぜご縁がととのうかというのは分かりませんし、思い通りになりません。だから「不思議」です。「思議」とは「こうじゃないか・ああじゃないか」と思いはかることですから「不思議」というのはそういう人間の考えが及ばないということです。
あなたは人間の考えが及ばない問題を「あなたの考え」によって解釈し、自ら苦しんでいるのです。
真面目に生きるのがバカらしくなるでしょうか。それならば不真面目に生きればいいのです。しかし人間は不真面目に生きるご縁が整わないと不真面目に生きれません。
「なぜ?」では人は救われないのです。今まさに「そうなっている」事実に頷くところから歩み出す事こそ救いです。「考え」の世界に逃げず、地に足をつけるということです。
娘さんが今ここにいる不思議なご縁。あなたがあなたとしている不思議なご縁。どうして自身を責める必要があるでしょう。全てはご縁からの授かりものです。
どうぞ今この現実をお幸せに。
皆の幸せ、悟りへと向けて
Mii様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
全てはご縁により成り立っている世界。
ご縁が調わなければ、何事も結果というものはあり得ないものとなります。
人として産まれるも、産まれられないのも、ご縁。
ハンデを背負うのも、ご縁。
私たちは、善きも悪くも、与えられたご縁の中でしか存在できないのであります。
問題は、そのご縁の中で、いかに心を陶冶して、より善い心を醸成していくべきであるのかが、大切なこととなります。
仏教では、その善きご縁となる教えがたくさんございます。
その産まれてこられなかった子も、娘さんも、そして、貴女様も、また全ての衆生(有情)たちの幸せのために、やがて皆が悟りへと至れるための教えが、仏教でございます。
解放云々ではなく、その子、娘さんも、貴女様も、そして、全ての者たちの幸せ、悟りのために、是非、仏教を学び修していって頂けましたら、誠に有り難いことであると存じております。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
お礼が遅くなり申し訳ありませんm(__)m
そしてお二方のとても有難いお言葉に涙が流れました。
どうしても、主観?で物事を解釈しがちですが、この世にはどうにもならないこともあり、全てがご縁である、というお言葉を胸に今後も家族や友人を大切にしたいと思います。
まとめてもお礼となり恐縮ですが、本当にありがとうございました!