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人にバカにされた時

回答数回答 3
有り難し有り難し 90

人にバカにされたときって
どういう態度や振る舞いが
正しいのでしょうか。

容姿とか貧乏とか
そういうどうにもならない
くだらないことを
バカにされるんじゃなくて、

自分の責任で
情けないことをしてしまって、
バカにされて笑われてる時って
私は恥ずかしくて、いたたまれなくて逃げ出してしまいます。
バカだなと思うけど、逃げ出してしまいます

どういう態度がいいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

バカになれないから苦しい

「人にはバカにされていろ」というお釈迦様の教えではなくて親父の小言があります。
私はこの言葉が好きです。
こう見えても昔は、すかした和尚をしてましたが、楽勝です。
人気者になれますよ。
それっぽいですし、如何にもお坊さんポイです。
その分守るものや、縛りができる。
バカでいる方がはるかにグレイトだと感じています。
あなたがバカにされていて辛かったことで何か失われたような気になっているのは、何か持ち物があるからではないかと思いました。
自分らしさ。自分の作ったイメージ。自分の作ったそれっぽさ。
どれにしても自分で作った=装ったものではないでしょうか。
装いは、作り事。
ホンモノはメッキじゃない。
ぼろ隠しのメッキ的スタンスで居ると、失われることがあるのです。
気づかない内に。なんか「自分」作っちゃったんんじゃないでしょうか。
かまえ事が無いのを「転(まろばし)」と言います。
リアルタイムで相手や状況に応じて無限に変化できるのです。
だから、失態をして謝れるべきときに謝れる。
謝っても失いがない。
他人様の失敗、失態だって故意ではないでしょう?だから、笑われるべき事、笑われるべきものではないことがわかるでしょう?だから、笑わせておくのが一番良いのです。まともな人間は笑いもしないから。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

てへぺろ

まずは受け取りの問題です。
あなたが「バカにされた」と感じるとき、相手は何を得ているのでしょうか?「こんな簡単な書類を間違えやがって」であるならば、謝って直すよりありません。それはあなたをバカにしたいのではなく、仕事を進めたいだけです。
あなたの事を自分より下に見たくて、言うなれば難癖をつけているのであれば、逃げるか反論です。つまり、ご自身が「バカな事をした」と思っていないなら、戦うべきでしょう、あなたを守るために。
つまり、「あなたに視線を向けている」のか、「仕事に視線を向けている」のかの違いです。そこ、ゴッチャにすると「面倒な人」でしかありませんよ。

次に、「あなたをダメなやつだと嘲笑いたい」人であれば、まずその人自体を「ああ、私を下に見て、自分を"それよりは上"と思いたいんだなぁ」と心の中でつぶやいてみて下さい。その言葉が浮かべば、感情が反応してカーッとなっても、溺れないための命綱になりますよ。そして行動は「てへぺろ」です。「あー、もう私ったらおバカさんで、ごめんなさーい」と、先に言う。予防接種のようなものです。
もしも「てへぺろ」が難しければ、「恥ずかしー」と叫んで顔を隠す。それで調子に乗るなら「あなたに何かしたい」人、怒ったり教えてくれるようなら「仕事を進めたい」人。逃げてしまって、その場に直面しないと…それは、繰り返しの道です。

日常のこととしては、「バカな事をする」回数を減らすべく気をつける。それと「バカにされる」は違う事なのですよ。泰庵師の仰るように、「そもそもの原因を作らない」事が大切です。あなたの失敗パターンはなんですか?猪突猛進ですか?無理と思っても断れない事ですか?他人としっかりコミュニケーションできない事ですか?一旦紙に書き出して見るといい。案外少ないものですよ、根本は。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

逃げてください。だけど、逃げてからが重要!!

こんばんは。

恥ずかしいその場をどうしのぐか!
逃げるか、逃げずに機転の聞いた一言でも言えるようになるか。

質問の内容がそうであれば、逃げてくださいという答えになります。

だけど、逃げてばかりじゃ同じことの繰り返し。
乗り越える知恵は身につかないですよね。

恥ずかしいと思っているのは自分ですが、
自分のことばかり頭の中で気にしていても、問題解決にならず、同じ過ちの繰り返しで自己嫌悪に陥る悪循環。。。になることが少なくありません。

自分以外の他の人ならどんな風にこの場を対応するだろう?
自分以外の他から、学ぶ、習う。
周囲の観察と自分がするしないは別。

で、自分に問う。

あの時はバカみたいなことして、ホンマに恥ずかしかった。
今でも思い出すと恥ずかしい。
で、同じこと起きそうになったら、
あの時の自分に、今の自分ならどんな助言ができるだろうか?
誰かが昔の自分と同じことしでかしたら、どうフォローしてあげる?

その答えを少しづつでも見出すことができれば、行動も変わり、人生も変わるのではないでしょうか。

北陸の片田舎に住む者の言葉なので、鹿児島でもあてはまる自信はないのですが、
よければ、参考にしてください。
お気に障ったら謝ります。

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有り難し
おきもち

hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

質問者からのお礼

有難うございます!

佐藤様
ありがとうございます。
そもそもの原因を作らないことが大事なんですね。
私は何度も気をつけようとしてるのに、本当に気をつけてるのに。失敗してしまい。自分でわかってるのに、相手に言われると本当に逃げたくなります。

泰庵 (釋 一法)様
ありがとうございます。
逃げてからが大事なんですね。肝に銘じます。

丹下様
ありがとうございます。
そうですね。
たしかにまともな人は笑ったりしませんね。私が恥ずかしいだけですね

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