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特定の人と、心の中で比較してしまう

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有り難し有り難し 27

聴いてください。

現在40代です。
以前は医療者でありましたが、現在は結婚して自営業です。

30代の前半の頃、まだ独身で、医療系の仕事をバリバリしおりました。そこで、仕事の悩み、相談、よい点を話す、好きなことを話す・・・そんなサークル的な会を6歳年下のNさんと始めました。

私はコツコツ地道なタイプですが、
Nさんは頭の回転が速く、実行力のある人でした。
そんな二人だから、なんとかサークルが出来ていたのかと感じます。

お互いに意見が食い違い、ぶつかることもしばしば。
コミュニケーションの仕方が、お互いに違い、
私は考えて、考えて、考えて、やっと言葉にする。
一方Nさんは、どんどん話してくる。
よくNさんは「なんでも話して、」等、
遠距離でもあったので、なかなか会うこともできない。私は、メールいろいろな想い(サークルだけではなく、人としての生き方、考え方、等)を書くと
「何言っているかわからない」と帰ってくる。

それでいて、上から目線なモノの言い方で、支配されたようにも感じ、どう付き合ってよいか、わからなくなり、私はそれ以上何も言えなくなりました。しかも、年下の人に言われたことがとてもショックだった。

お互い分かり合えないまま、サークルも、二人の関係も自然消滅しました。

私は結婚、子供は授からず苦悩の日々。
一方、Nさんを知る友人からNさんは結婚して子ども2名いるようです。

彼女との関係性で、とても怖かった。心の傷です。
彼女が幸せそうに暮らしていることに嫉妬している。
もう何年もあってもいない、話してもないのに、
心の中で比較してしまいます。

どう整理つけてよいのでしょうか?
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたはあなたという身心で幸せになることが仏教

たとえばチョー――――――――大金持ちなのにスンゲー―――――――ヤな人でマジかよ――――――――っちゅーくらいの不幸な性格で怒りっぽくていつも金取られるんじゃないカネ取られるんじゃないとハラハラして家族にも当たり散らしている不幸な人がいます。
一方、24時間規則正しい生活をされていて、なーんも悩みもなく、あるもので満たされていて、人のこともとやかく
問題にならん人もいます。
あなたはあなたで幸せになればよいのです。

この世の他人さまはあなたを覗いた全人口のおよそ76億人の全員が他人です。まったくあなたと無関係に今日もあなたの頭の中で考えていることとまるで別のことをしています。
その人も含めて。
あなたはあなたの身心を最高に楽しく生きればいいのです。
自分をやればいいのです。
あなたの自己ディスプレイ上に人のコトばっかり映していないで今日はもう今日なのですから、今のあなたの目前を楽しみましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お返事遅くなりました。

楽しく生きることは心がけておりますが、昔の嫌なことが時々疼きます。

ここで初めて書いたことで、少しだけ落ち着きました、ありがとうございます。

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