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輪廻転生する“私”は存在しないと思うのですが…

今日は! 食前と食後にお菓子を食うせいやです。

存在しないというより幻や夢といった表現が合っているのかもしれません。私はいないので、苦や世界もあるように思えて存在しないと思うのです。だから善悪すら本来は無いというか、あるんだけど絶対悪の如く極端に偏っている事はないと思うのです。世界は中立だと思うのです。心の持ちようで世界は地獄にも天国にもなると思うんです。

明晰夢をみている感覚です。湧き起こってくる心をみているというか、それに一々惑わされずに済むのです。この夢で行為しているのは自分ではなくて、観察しているのが本来の私だと思ったんです。仕事に行く前、ソファに座っている時、この事に気付いて腹を抱えて笑ったんです。

夢だとわかっても楽しめるものは楽しむんです。だから、食前と食後にお菓子を食べるわけです。

上手く言葉に出来ません。質問になっていないので回答はいらないです。お邪魔しました。

有り難し 19
回答 2

質問投稿日: 2015年12月13日 8:23

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

うまく言葉にできない、に逃げない。

ぶっちゃけこう言っちゃなんですが、自称・悟りを開いちゃった人に陥りやすい症状です。
ウチのお寺には時々自称悟りを開いちゃった人がやってきますDA。
ワレコソハ( ˘ω˘ )悟リアーニナルゾ  ハハー('Д' )-ω-)ぷぷp…
そういう人たちに共通していることは、すぐそこでできあがっちまってること。天上が低いのです。
なんか、この私の体験は特殊過ぎて誰にもワカラナイダーしゅわっち、になってしまって、それ以上進化しようとシナイダーなのです。
チョットだけ厳しいことを言います。
これは、あなたに対してではないです。そういう自称悟って出来上がっちゃった系の方に対して申し上げるのですが、それは「ケチ野郎」の考えなのです。
自分だけが幸せゴールに到達して悦に浸っているケチ野郎です。
この世に誕生して、いろんな方々の縁によって、そういう心境になったのに「私は悟った」に酔って浸って誰にも分かるまいと上から目線で、自分一人の独自の世界で自分に酔ってるナルシストの一種です。
お釈迦様は違います。祖師方も違います。
その心を誰にでも分かるように説いています。祭り上げてもいない。
大乗に対して小乗と言われますように、自分だけ救われたところにとどまっているのは結局悟りではないのです。自分がないと言いながら、どうせわかるまい、という自分がある。
そういう風にはならない様には注意された方がいいでしょう。
彼らのように、そういう所にとどまっているのも輪廻転生にどハマりしている状態の一種だからです。

2年9ヶ月前

「如幻・如夢」について

せいや様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「存在しないというより幻や夢といった表現が合っているのかもしれません。」・「夢だとわかっても楽しめるものは楽しむんです」・・

まさにある意味ではその通りです。ただ仏教における「幻」や「夢」の表現の例えというものは、「空」(実体・自性・自相の無いこと)を示すための意味で用いられますが、正確には、「如幻」や「如夢」として、あくまでも「如し」であって、「幻」・「夢」そのものではなく、「幻・夢に似ているもの」ということになります。

なぜ、「如」と付くのかと申しますと、幻や夢は、何も効力を持ちませんが、現実世界では、色々な効力(効果的作用力)が生じることになるからであり、「イコール」ではないということで「如」が付くのであります。

例えば、幻の例えとして蜃気楼というものがありますが、海の彼方で浮かび上がっている蜃気楼の船は、何かを載せて運ぶことはできませんが、現実の船であれば運ぶことができます。夢の中での交通事故では怪我をしませんが、現実ではそうは参りません。

そのようにして両者の違いを理解していくことが大切となります。

「輪廻転生する「私」は存在しない」・・

「私」というものも、もちろん「実体・自性・自相」として存在はしていません。但し、今もこれからも連続していく、相続していく「私」というものは扱うことになります。空にして縁起により成り立っている「私」となりますが、このあたりのことを理解していくには、少し難しいところもございます。

是非、仏教を修習されながら、これからも探究していって頂ければ有り難いことでございます。

川口英俊 合掌

2年10ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

ありがとうございます。私が体験した事は言葉では表現出来ないんです。静かに在るというのが大事なんでしょう。マハルシやマハラジがそうであったように。

覚元様回答ありがとうございます。私はここで終わりとは思っていませんよ(笑)だから20日になったら出家しますし、そもそも思っていたらこのサイトに書きません。

空の理解に留まっている日本人グルをみたことがあります。その時、自己中心的だと思ったんです。その様な明晰夢をみたい訳じゃないんです。真我について人々に広めていきたいんです。

貴方の辛口な物言いと合間に入れる冗談が好きです。冒頭の滑り芸も貴方の影響(笑)

追記です。「私は悟った」とは思っていませんよ(笑)私は行為者ではなくて観察者だから。観察者である真我に夢見も目覚めもないのです。生まれてもいないし死にもしません。永遠不変の存在です。

いや、永遠不変という表現すら違うでしょう。「何々ではない」という表現で表せる何かです。全ての想念を捨てる必要があります。言葉では表現出来ないとは、こういうことです。

また、念のために記しておきますが、大乗仏教の信者より上座部仏教の信者が下だと思っていませんか?

もしそうなら証明してみせてください。彼らに根本的、本質的違いはないはずです。上辺っつらだけで判断するのは、ラジオが流れているのを「機械が喋った」と思う様なものです。

ああだこうだと決めつけたりした物事を他人に押し付けても通用しないのです。その様なレッテルは、その人の世界にだけあります。まるで夢を現実だと思っている様です。思い込みや決めつけをやめれば、夢の中で夢だと気付くと思います。多分ね。

根本的、本質的違いがないとはこういう事です。

それはさておき、自分で書いといてなんですが、上記の「私は観察者」みたいな事も断言するべきではないんですね。森羅万象に内在し、包括もする意識の様なものです。沈黙こそ一番の雄弁であると改めて気付かされます。

川口様。ありがとうございます。しかし、私は世界による影響を受けません。交通事故の怪我で例えられていますが、傷付くのは体や心であって私ではありません。また、私は連続も相続もしていません。私は、その様な幻覚すら捉えていません。世界の中に私があると思っている人にとっては、その様に思えるのかもしれませんが。心の中に世界があり、その中に体があります。そして、心を包括し、体に内在しているのが私です。

だから、私が「真我を広めたい」と言う時、それは心に対してです。

書き間違えた。「私の心」ね。世界のあるがままをみるんです。言い換えると「静かに在る」です。

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