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わからないは、やる気ないですか?

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有り難し有り難し 12

私は自分がよくわからないときがあります。

苦しいからカウンセリング通ってたんですが、
昔のある出来事について聞かれて
どう感じたの?と言われ、
うーん。ごめんなさい。わからない。と答えました。
本当に自分がどう感じてるのかわからないのです。
わからないから困ってるんです。

すると、
わからないなんて、
やる気ないんですね。そのままで居たいならどうぞと言われました。

困ってるから来たのに、
悲しくなってもうカウンセリングに行く気持ちが持てないです。

でもこのままでは嫌です。

わからないなんて
甘えですか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「分からない」ことは分かってる。

 まさしく禅問答的なタイトルですが。
 以下は、殆どが僕の空想・推測です。あなたに何かを教える積もりはなく、「問い」を読んだ上で妄想したことを書いていますので、そこはご注意下さいね。

「困っている」のは「自分がどう感じているか、分からない」事についてですね?
それは恐らく、「自分の感じている事を言葉にしない事で、何らかのメリットを得てきた」とカウンセラーさんが推測したのだと思います。メリットとはつまり、自分を守る方法。
 「自分の思いが分からなくて困っている」けれど、何かそういう対応(自分の感覚に名前をつけない)を選ぶに到った原体験を探ろうというのが方針なのかな、と思いますが、強い言葉をつかったのであれば、それをキッカケにして、その「原体験」の感覚を呼び起こそうとしたのかも知れません。
 そこであなたは「悲しくなった」。それも、「自分の思いを探る」ことへからの回避を感じます。その体験のシーンを思い出す中で、自分の居た場所・近くに居た人・シチュエーションを思い出す中で、だんだん自分の行動や、その結果を思い出す。大抵は辛いシーンです。辛いから思い出したくない、触れたくない。「覚えていない」ならば、そんな大したシーンではなかったということです。
 「自分が分からない」には、過去に「自分の気持ちを表明しない方がいい、自分の気持ちを感じない・大切にしないほうがいい(してはいけない)」という経験のあったことが推測されます。自分より、他人を通す。そのためには、「自分の気持ちは無視する・封印する」必要があるのです。

 と、勝手な推測を並べ立てましたが、いかがでしたか?
「こんな風に困っている」という事を書かれると、もっと沿った「お答え」がいただけると思いますよ。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

カウンセラーは自分たちの手法に当てはめようとする

そこで「けっ(-"-)」となったカウンセラーは大した奴ではないという事がわかったのです。(笑)
彼らは要は自分たちの手法に当てはめていこうとするからです。
「アンタ治りたいんでしょ?じゃあ、金払いな。んでもって俺たちの治し方のマニュアル通りにイエスかノーで答えな。時々、色んなこと聞くけど、俺たちはその答えによって分析結果が分かるんでちゃんと答えな。答えてくんなきゃ直してやらねえぞ」って言ってるのです。
だから「何、オレの質問に答える気がない?やる気ねーな、ちっ。」ッとなったのでしょう。
愛の無いカウンセラーだねぇ、そいつは。(。-`ω-)
あなたは別にやる気がないわけじゃないよねぇ。本当にわからないんだよねぇ。そういうことだってあるもんね。私だったら「つーか、何だその質問。無茶ブリもいい加減にしろや。お前、そんな事毎回考えながら生きてると思ってんのか?このマニュアル人間めが。」とかいってしまいそうです。(笑)
世の中には医者といっても弁護士といっても政治家といっても僧侶といっても事務的人間、マニュアル通り人間もいるものです。そういう人間だったんだと思って自分を悪く思わないことです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。自分がわかると都合が悪いんですね

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