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燃え尽き症候群について

回答数回答 2
有り難し有り難し 15

数日前から
やる気も出ず、食欲もなく
休みも布団の中でゴロゴロするのみです。

人間関係の問題(嫌がらせや悪口)
趣味関連の揉め事などで
かなり神経質になりました。
人の目が気になり、また他人の言動が気になったりします。

人と比較して自分を否定したり
自分がしてきたことは間違っているかもしれないという葛藤でかなり疲れてしまいました。

このやる気のなさは燃え尽き症候群なのかな?と思うのですが
こういう場合、どうしたらいいのでしょうか?

ご指導よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

嫌がらせって

 前回の「問い」との共通点に、「嫌がらせ」があるのだろうと感じます。これ、いま意味が凄く拡大しているようです。そもそもは「意図的に不快にさせること」であるようなのですが、Wikipediaでも「厳密な定義は存在しない」とあって、「精神的苦痛や物質的損失を与える結果となる行為」と断った上で「自覚を持たず無知または当人なりの善意に基づいて行為に及んでいるケース」もあるというのですから、どうやら「意図的であるか否か」は引っ込んでしまい、「不快にさせられた」ことをもって「嫌がらせをした」と名付けられるようですね。
 なので問題は複雑です。請求書の宛名を間違えた→上司に叱られた→叱られて不快→上司からの嫌がらせ?第三者的に見て、というのと当事者に見える世界はまた違うのですが、これは少なくとも「不快にさせることが主目的」ではないと見受けられます。
 つまり、あなたが不快に感じていることは、相手にとって主目的だったのか?という辺りが分かれ目なのではないかと思います。「主目的だった」のであれば、布団を被りたくもなりますが、「宛名はちゃんと確認しなさい」だったら、やるべき事、考えるべきことは変わりますでしょ。その辺をゴッチャにしてしまうと、「被害妄想も絶無ではない(Wikipedia)」。
 もしも、あなたが今まで「私は自分の信じたことをやる。人がどう思うか関係ない」という信念で来たのであれば、それ自体を再検討する訳ですから、そりゃ大変でしょう。けれど、それにしても「燃え尽き症候群」とは違うと思います。何か「目標としてきた事をやり切って、次が見つからない」というニュアンスのようですから。
 なので、いま多分「今までと違う人生の過ごし方・新しい一歩」を踏み出そうとしているのだと思います。「人がどう思うか関係ない」で渡っていける人生は、狭いものです。でもそれを感じつつ、ネゴしていく人生を歩み始めたのであれば、それは開けた世界に繋がっていると思いますよ。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

それは燃え尽き症候群ではなく

それは「燃え尽き症候群という事にして何もやろうとしない症候群」です。
今の自分の状態に何らかのラベルを貼り付けてそれで自己暗示にかかっている状態なのです。
('ω')「あなたは〇〇症候群だ」といわれて暗示にかかるようでは今後の人生お先真っ暗。
人の言葉に左右されまっせ。もともと人間打たれ弱い状態。言葉に弱いものです。
ですが、それはその言葉と特にあなたが過度にひきよせすぎたというまでのコト。
壁に書いてある誰にあてたものでもない言葉で勝手に気づく心理と、
人からこちらに云われた言葉に木津就く心理は同じだと悟りナサイ。
何が違うのか。
そこに自分へのひきよせ、手繰り寄せが生じているのです。
仮にあなたに言われたにせよ、自分の土俵、自分の心の部屋、自分の心のフィールドに取り込まなければいいのです。
お釈迦様だって、バリゾーゴン言われても何でもなかった。
心の中で自己との関連付けがないのです。
ちょっと、練習しましょう。
「このクソ坊主!ツマラン回答ばっかりの口先だけのヘボ僧侶め!」
ぶわーん(T_T) 泣 
↑ 自分にひきよせすぎた。
言葉に対して距離が近すぎた事を思い出してください。
あなたがその言葉を受け取らない位置、マトリックスのように(たとえ古いですが)そりかえりながらかわすイメージで相手の言葉を受け止めないのことです。
そこまで巻き戻してください。あなたは今から生まれ変わり、エルサが雪の中で手袋とマントを脱ぎ去るように自由になれましょう。
キーワードは「自分にひきよせすぎない」

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

遅くなりましたが
ご返答ありがとうございます!

嫌がらせに負けてたまるかと
気を張りすぎてずっとここまで来ました。
もう嫌だとなっての燃え尽き症候群なのかなぁと思ってご相談させていただきました。
言葉足らずで本当に申し訳ありませんでした。

自分が新しく生まれ変わるきっかけとしてポジティブに考えたいと思います。
私の悪いとこなんですよね、考えすぎて引き寄せすぎるとこは( ̄▽ ̄;)

おふたりから指摘されて
いろいろ気づくことができました。
本当にありがとうございましたm(_ _)m

自分を大事にできるようにやっていこうと思います!

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