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命の限りの受け入れ

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両親が80歳になり二人暮らしが不安で実姉が同居してくれました。
実家は東京、私は大阪で離れています。

父はいますが幼いころから母子家庭と同じでした。父が家に帰るのは年に一回。
母子家庭と同じ環境だったせいか末っ子の私と母は一卵性親子のようになっています。

そんな母ももう80歳
3年前に駅の階段から落ちて意識不明の大ケガで運ばれました。幸い数カ所の骨折だけで命に別状はありませんでした。
昨年は家族のいる時に倒れ、救急車で運ばれました。脳梗塞でした。幸い処置が早く後遺症なしで助かりました。
昨日は定期的に通院している内科で心電図を取ったら波形がおかしいということで救急車でカテーテル検査できる病院へ運ばれ、検査の結果、心筋梗塞と判明。奇跡的に無症状のうちに処置も出来てまもなく退院です。

3年のうちに、立て続けにこのような状況になっています。年齢を考えれば仕方ないことなのかもしれませんが私は耐えられそうにありません。

頭では理解しようとしていますが心の支えが何もなくなってしまうようで。何も感じたくないので眠ってしまいたいです。ここ最近、母以外のことも色々ありすぎて相当頑張って踏ん張っているのに、そんな時に母の心筋梗塞。
もう、頑張るのが疲れてしまいました。

母に万が一のことがあった時、私は壊れてしまいそうで不安です。

大切な誰かを失った時の喪失感は多くの人が抱えていると思います。どうやって乗り越えていらっしゃるのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

喪失感というものは喪失「感」なだけ

般若心経に「不生不滅」「不増不減」とあります。
悟った人、悟りの世界からするとものは生滅や増減がありません。
この身心はいつも今の事実と共にあるので、今見ているものしか相手にしません。
考えや思考、思いの上では増えたり減ったりはありますが、事実の上では減ったり増えたりということがないということを明らかにすればいいのです。
人間生きながらに色んなものを失っているのに失った感はないでしょう。
今呼吸をした、吐いた、出て行ってしまった、失われてしまったとは覆わないものです。
子どもの頃は大事にしていたはずのおもちゃが無くなったとしても今は忘れていたはずです。
この人と結婚するんだっ💕と決めていた男性とやっと別れて喜んでいる女性もわんさかい過ぎて世にあふれています。(笑)
こうなったらどうしよう、こうなったらどうしようという思いに苦しんでいるだけです。
思いのモードで生活している時は、考えたことが真実に感じられてしまうのです。
この身心は一切の体感を流し去って、終わらせていっています。
禅ではこれを脱落の身心と言います。
一切の体感を脱落しながらの生活をしています。
そういうところに目をつけて頂きますと、事実・実際・実相・ノンシンキング・非思考・不思量の世界に目覚めます。
ちょっと左を見てください。
この文字がこの身心から失われます。
次に右を見てください。
左の景色も失われます。
上を見てください。左右もこの文字も失われます。
大丈夫だったはずです。
仮にお母様が亡くなられたとしても、亡くなられた後のこの目前の事実はちゃぁんとあなたといつもピッタリひとつです。失われることがないのです。
失うということは人間の言葉のトリックです。
喪失感というものは喪失した感覚のほうを真実だと思ってしまうのです。
確かに失われて苦しいこと、つらいことはあります。
ですが、今、かつて失われたことを忘れていた事実があるはずです。
答えはそこにあります。
失うという感覚や喪失感の方にくらまされないようにしましょう。
「事実は失った・得た」ということを言っていない、ということを坐禅をしたり、事実をよく見つめて明らかにすることで人間は喪失感から解放されます。
それ故に般若心経では不生不滅、不増不減と説いています。
事実に増えた減った生じた滅したと色づけるは誰がどこでやっていることか。要参究。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。
目の前のことを見るようにします。
幸い母は助かった、その事実に感謝して、起きてもいないことに一喜一憂しないようにします。

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