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新生活の心構え

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有り難し有り難し 9

私は小学生の頃から葬式に出ることが多く、今年も祖父の三回忌です。

そうしたことから、お坊さんのお話を聞く機会がよくあり、仏教に興味を持ち、そして、ほかの宗教についても興味を持つようになりました。それから、色んな本を読むようになり、仏様も神様も様々なものや生き物にも魂があるということも信じるようになりました。

これまで、辛いことがあっても「試練」だと思って生活してきました。

春からは農大生になります。新しい生活が始まるのでいろんな不安があります。
お坊さん方、どのような心持ちで新生活をしていけばいいのか教えていただけると嬉しいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

目には見えない縁をこそ大切に

私は農学には無知でしたが、福岡正信さんただという方の書に出会って目からジャガイモでした。
土の中には目には見えない微生物が沢山住んでいます。
野菜を育てるにはただ太陽と土があればいいと思っておりましたが実は微生物たちが大きな役割を担っていると知りました。
今や日本の農業は表向きはクリーンな〇A帝国に農業の大半が牛耳られています。
農家は巨大帝国J〇からF1タネを買います。肥料も買います。農薬も買います。
その結果どうなったか…ここはあなたが何を考え、どう思い、どう進むべきかを考えて頂きたいと思います。
ある農家の方は、当たり前のように農薬や化学肥料をくれていたら子どもがアトピー性皮膚炎になったといいます。口に入るものであり、食べ物によって人間は作られます。
その方は思い切って農薬を使うのをやめたそうです。
その結果、お子さんのアトピーは改善されたそうです。
世間では「当たり前」とされているものの中にこそ、危険なものがあるということを知っておいてください。また、大きな組織に所属すれば組織に守られる分、組織の言いなりになり、組織の上層部の進もうとする方向へ流されてしまうということがあります。
私はJΛやイーオソのような何でも屋さんは正直個人的にあまり好きではありません。
国とも癒着し、誰かさんの思惑通りに動いていきます。
それよりも田舎のばっちゃんが昔ながらの製法で育てた野菜の方が安心・安全で味もおいしいいということがあるのではないでしょうか。
別にJΛやTーオンなどの巨大組織の批判ではありません。
世の中の誰も本当のあり方を問わなくなっていっているとても大事なところです。
私ども僧侶も大きな組織に所属するとその組織の言いなり、いい子ちゃんになります。
人は飼われたらダメになります。
自分自身こそ大きな苗だと思っていてください。
筑波大の研究でトマトの水耕栽培を試みたところ、あらゆる天敵を排除して育てたところ10000もの身が実ったという実例があります。
人間はそのくらい大きな働きを持っています。
組織や何かのルールに縛られて身動きが動けなくなるようなカセが自分に生まれていないかをよく自己を見つめて気づいてください。
ニンジンは野にあっては草・根。また板・皿の上にあっては食材。捨てられればゴミ。買うようされれば肥料。どう転んでも世の肥やしとなるべく精進なさってください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様回答頂きありがとうございます。
人間以外にもたくさんの生き物が助けてくれていることを忘れずに、頑張りたいと思います。

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