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後悔を抱きながらの生き方

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有り難し有り難し 61

今年4月母を死なせてしまいました。
後悔の念は死んでも消えない。どういう気持ち、思いで生きていけばいいのかわかりません。

母とは離れて暮らしていたので毎週末会いに行き、身の回りのことや行きたいと言ったところへ連れて行ったりしていましたが、3月中旬から風邪が2週間治らなかったのをきっかけに、自分でも気付かなかったうつ状態が進行し判断力がなくなり、母のことが見れなくなっていました。

同時期に母の病状も危機的状態になっていたのに危機感を持たず接し、町医者を信じこの薬は痛いからと母に我慢させ治療する父におかしいと言う事もできず、係わっていた医療従事者からも専門医へ行くようにとの助言も無く、なにかがおかしいとわかっていたのに適切な判断もできず、手遅れになり死なせてしまいました。どうしてこうなったのか頭がボーとしたまま、葬儀も納骨も終わってしまいました。

すべては母の病気を理由に自分が自分の人生を生きてこなかったせいだと今はわかります。私のことを無条件で愛してくれた唯一の人の最後に手を握ることも抱きしめることも、苦しかった気持ちに寄り添うこともせず、眺めているだけでいかせてしまった。自分が自分ではない感覚。あれは私ではない。頭がちゃんとしていれば母はもう少し生きていられたはずなのにという思いが何度も何度も浮かんでしまいます。

あれから泣かない日は無く体調不良になり、母がどんなに辛かったか身を持って感じています。母は最後まで泣かなかった。風邪をひいていた私を心配し自分の体調不良を言わなかった。私は最後まで子供のまま母に甘えて終わってしまった。もう取り返しがつかない。

誰にも話せずこちらにだとりつきました。父に言えばせめてしまう、姉に死にたいと話したら私はもっと辛いことを自分で乗り越えてきた、母のことをきかされたら私が辛いのがわからないのかと言われ、年上の信頼のおける人だと思っていた人にはうつだと知らせたら面倒なことは疲れるとただの知人だったことがわかり縁が切れました。すべて自分のしてきたことの報いです。

今は毎週末お墓へ行き母が永遠に幸せでありますように。ありがとうございました。全部ごめんなさいと詫び般若心経を唱え、家で写経をしています。

それでもどうしようもないのです。どうしたらいいのかわからないのです。
長くなり申し訳ありません。なにかお言葉を頂ければ幸いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたのその思いだけで十分。

後悔したくなる気持ちは分からなくはありません。しかし、お母様は、きっと自分の子供のことであるからすべて分かっていたと思いますよ。優しく許してくれるでしょう。あなたのその優しさは、十分わかっていたはずです。
これから先、後悔し続けることは、お母様の願いではないはずです。子供の幸せを願うのは親というもの。今この瞬間から、あなたは後悔することをやめ、自分の幸せのために生きてください。
ふと思い出した時に、写経したり、お経を唱え、手を合わせれば十分です。
あなたが安心して笑顔で、周囲の人を幸せにすることが、何よりお母様への供養となり、あなたを救うことになります。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

お母さんのご逝去、謹んでお悔やみ申し上げます。
あなたの悲しみが消えない理由として考えられることだけ綴ってみたいと思います。
おそらくグルミさんは、お通夜やお葬式の中で、悲しみのあまり、ずーっと茫然自失状態であられたまま、きちんとしたお別れもできないままお過ごしになられてしまったことでありましょう。
お母さんときちんと落ち着いてお伝えすることができないまま、お別れできないままに今日までお過ごしになられてきてしまわれたことが、今も尚、心の中でずっとお母さんへの伝えられなかった思いとして、残っておられるのではないでしょうか。
それが悲しみのあまり感じ取れなくなっておられるのかもしれません。
愛別離苦と仏教では申します。
それも自身の思いの働きなのです。
供養をする、手を合わせることも大切ですが、あなたの中のお母さんに対する想い自体があなたを一番縛っていることを客観的に観てください。今も尚お母さんが苦しんでいるかのように思っておられませんか。それはあなた自身が「そうではないか」と思ってしまっているあなた自身の思いであることを観てください。それが愛別離苦の本源なのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

邦元様
ご回答ありがとうございます。おっしゃるとおり母は許してくれていると思います。でも自分が自分を許せないと思っていました。それは自己中心的考えで母のことを何も考えていないのだと気付きかせて頂きました。母はいつも私の行く末を案じていました。死別してなお母に甘えていました。母に安心してもらえるよう自立していく努力をしていこうと思います。
ありがとうございました。

丹下覚元様
ご回答ありがとうございます。おっしゃるとおりです。最後に「ありがとう。幸せでした」と母に言いました。でもごめんなさいが言えませんでした。手遅れになるまでほおっておいてごめんなさいと言いたかったのに言えなかった。謝ったら自分のせいになると思って言えなかったんです。翌朝過ちに気付いて亡くなった母にすがってごめんなさいと謝り続けました。姉兄にも私の不注意で死なせてしまってごめんなさいと謝りました。だから生前の母に謝罪できていないのです。私は最低の人間です。
いつも思い出すのはベットの上で何度も起きあがろうとして、何か言いたくてももう言葉もでなくて苦しそうにしている母の姿ばかりです。わかったはずなのにわかってあげられなかった。最後の会話は亡くなる5日前「頭痛い?」母「ううん。痛くない」でした。今はもう痛い思いはしていないとわかっていたつもりでしたが、頭のどこかでまだ苦しんでいると思っていたのかもしれません。
今は祖父母と一緒で幸せでしょうか。ちょっと早めにいかせてしまったけど・・・もしまた会えるとしたらいっぱいあやまりたいです。
御位牌はありませんが今は一緒に暮らしているようで前より近くに母を感じます。苦しんでいた過去の母ではなく今の母のことを考えて過ごしていこうと思いました。
また迷ったら自分を客観的に観るようにしたいと思います。生きるヒントをありがとうございました。

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