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仏壇を置くお部屋、供養の仕方などについて

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はじめまして、こんにちは。今質問が集中しているようで、お忙しい時は後に回してください。

去年亡くなった父のお墓が決まり、近々一周忌を迎え納骨予定でございます。
そして、仏壇は実家の和室の床の間に南向きに置かれております。仏壇は和室のほうが合いますが、実は父が最後の数か月を家族と共に過ごしたのは皆がいつも集まる広い洋室の居間でした。父が脳の病気で記憶や意識が混乱していた頃、夜中に私が居間で書き物をしているとふらふら来て「ここへ来ればみんながいると思った」と言っていたのが印象に残っております。父は寂しがっておりました。
和室の床の間はお線香をあげに行く時しか行かないお部屋で、例えば食事を作って父の分をお供えしても私達は洋室の居間で食べるといった具合になり、父だけ別室で寂しいような気がします。特に冬は父の仏壇の部屋だけ寒くて、寒がりだったのに一人向こうの部屋で静かにしていて、居間ではみながにぎやかに温かい鍋物を食べたりしておりました。
そこで、洋室に仏壇を移動するとおかしな感じになってしまうので、みながご飯を食べたりおしゃべりしたりしている所に父も呼べたらと思い、お葬式の時に使った大きな写真を居間に置いて、食事の時はその前にちょこんと父の分をお供えして同時に食べております。一方仏壇にはお水やお花お菓子をお供えし、あちらとこちらで二つ供養の場があってよいのかと迷い、今回ご相談いたしました。このような供養の仕方でもよいのでしょうか。

状況を説明しようとして長くなってしまい、すみません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

父を想う「その心」は何処にあるのか

お若くしておとう様が亡くなられてしまいさぞお寂しいことと拝察申し上げます。
絶対にこうでなければいけないという決まりがあるわけではありません。
お父様を想うその心はいつでも自身の内なるものです。
仏壇、仏間、仏膳とは、家庭の中のオフィシャルな場として自身の内なる父にお供えをしているという面もあるのです。
心の外に父親、外に仏を求めずに内なるお父様を感じてください。
あなたがお父様のことを思う心は自分自身のこころでしょう。
道元禅師という方は心の外に亡き方の存在や理想郷を思い描くべきではないことを説いておられます。
この自己をおいて他にお父様を感じられるところはありません。
自身、自心のお父様への供養でもあるのです。
それ故に仏壇・仏間をオフィシャルなものとして家庭の中に置くわけです。
最も近しく感じられる家庭的なところであってもよいでしょう。仏壇からちょっと引っ越してきた、飛び出してきてくれたと思っても良いでしょう。
ですが、ある程度の覚悟・決意がついたらきちんと仏壇におまつりいたしましょう。
故人様をほとけさまにするのは遺族の勤めであり、それが遺族の態度なのです。
亡き人を死後も我々を導いてくださる存在としておまつり申し上げ、我々も故人様や仏様のお導き・ご教導によって生きながらに仏の教えを明らめていく。生きながらに生老病死・四苦八苦を卒業してくことが仏教ですから、供養は供養を通じて自身を仏心に導くべく、供養いたしましょう。
決別とは、お互いが安楽にならなければいけません。
あなたとしてはずっとお近くにいてもらいたいという気持ちがあると思います。
ですが、亡き方・仏様の立場としては生きている人が自分自身の事で苦しんでほしくないと願うものです。人間には人間が向かうべき最高の安らかな心というものがあります。
お父様を想うその心をより高みに向かって、私情・私見・❝こうした方がイイのではないか❞という邪見を離れて正覚に向けてご精進なさってください。
供養とはただお供えをするというだけではなく、仏法を分かち合うという意味合いもあります。
人間が人間の見解から離れて自由になった心を分かち合うのです。
供養のお膳やご飯とはそういう人間の私的な見解・考え方を離れた浄飯・浄膳なのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

いつでもお見守りなさって下さいますから

拝読させて頂きました。
皆さんがお集まりなさる居間にお父様のお写真を置いてそこにご飯をお供えなさったりお線香をあげて頂けばよいのではないでしょうか?
お父様はいつでも皆さんを見守っていらっしゃいますから居間から皆さんを見守っているように置いてあげたらよいと思います。
お仏壇にもお花やお線香やご飯をお供えなさって下さいね。
合間に気が付いた時にどちらもお供えなさって頂いてお父様に手を合わせて真心こめてご供養なさって下さいね。

再度拝読させて頂きました。ありがとうございます。おととい母の49日忌法要をお勤めさせて頂きました。私の母もあなたのお父様もご先祖様もいつ如何なる時でも私達のことを決して忘れず離さずに身近で見守っていてくださいます。お写真は皆さんが集まるところに飾ってあげてくださいね!皆さんが写真を見ながらいつも心の中で手を合わせて頂くことをきっとお父様はお喜びなさって下さるでしょうからね。
これからあなたや皆さんやお父様やご先祖様とのご縁はより深まっていくのですからね。有り難いことです。

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おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

質問者からのお礼

丹下覚元様、Kousyo Kuuyo Azuma様 お忙しい中、ありがとうございます。私は今までまだ父が生きていた頃のような感覚で仏壇の部屋が寒いとか寂しくないかなど色々心配しておりましたが、亡くなった人は成仏へ向かっていくものなのですよね。生前私達の為にこの世界で四苦八苦してくれた父だから、尚更、亡くなった後は安らかになって欲しいと思い成仏を祈って手を合わせます。生きている者達はここで頑張っていきます。本当にありがとうございました。

Kousyo Kuuyo Azuma様、追伸させてください。過去の相談と助言を読んでいて知りました、あなたはほんの数か月前にお母様をなくされていたのですね。自分がそんな時に他人の相談に親身にのるなんて大変なことだと思います。あらためて、ありがとうございました。最近家族とケンカして気まずかったけれど、今週末帰省します。二人の親切なお坊様のお陰で、私は前と違う気持ちで父の仏壇に手を合わせることができます(仏に成ると書いて、成仏....今まで考えたことがなかった)。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ