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諸行無常について

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有り難し有り難し 27

①3ヶ月前に奥歯が三本グラグラして近い将来三本とも抜けると言われショック。これは因果応報か。
②一週間前に生まれてはじめてアレルギー性鼻炎になって辛かったが、それまで分からなかった花粉症の方の気持ちが分かって良かった気がする。
③何日か前にうつ病の薬が変わって上手く効いてくれて人生がハッピー?になった。
④先週の(土)に股関節の痛みで発育不全がわかり、生涯続けたかったマラソンはドクターストップがかかった。将来は人工関節になると言われショック。でも、人工関節の知り合いの痛み苦しみが少しだけ分かった気がする。
⑤戻りたかった福祉の仕事に戻れた。

と、ここのところ色々体の老いや病気がドドッときたり、逆に悪かったところが良くなったりしてます。良いこと悪いことがイッパイ起きました。

それを冷静に見れるようになったのはハスノハの僧侶の皆様や周りの方々のお陰です。ありがとうございます。喜びにも悲しみにも、老いの不安にも囚われず今を大事に生きようと思えています。

諸行無常とは、ありとあらゆることは変わっていくものだから、未来にも過去にも囚われず今この瞬間を大事に生きることだと思ったんですけど、ありですか?

なんか訳のわからない書き方になってすみません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ゆく川の流れは絶えずして,しかももとの水にあらず.

 諸行無常とは,「ありとあらゆる一切の事物や現象が絶えず変わり続けていること」を示します.
 
 我々は物事をみるとき,それがずっと変わらずに存在し続けている,とどこかで思ってしまっています.自分の大切なものなら尚更です.自分の大切にしているものが壊れたり無くなったりしたら悲しくなりますね.それは,ずっと自分のものとして変わらずにあり続けて欲しいと思っているからです.物だけでなく人に対しても同じように考えています.自分は自分,変わらない自分がどこかにあると思っています.そして,自分がどこかに無くなってしまう,つまり死んでしまうことが嫌なわけです.

 しかし,我々が「変わらずにある」と思っているものは,例外なく全てが変化し,無くなってしまいます.それを端的に言い表した言葉が「諸行無常」です.そして,一切の事物・現象は「諸行無常」であるのだから,変わらずに存在し続けていると思い込む間違った考えを捨てましょう,ということになります.

 諸行無常という考えは日本でも古くからあります.それを非常に上手く表現した文を最後に載せておきたいと思います.

 ゆく川の流れは絶えずして,しかももとの水にあらず.淀みに浮かぶうたかたは,かつ消えかつ結びて,久しくとどまりたるためしなし.(『方丈記』より.)

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有り難し
おきもち

拝読させて頂きました。あなたがそのように移り変わりを感じながら心が広がり豊かになっていかれることは本当に素晴らしいことかと思います。
年をとって様々な苦しみや経験を積んでいかれながら人の痛みがわかるようになることは人として学び成長なさっていらっしゃる証かと思います。

これからもあなたがあなた自身の人生を通して円満に成長なさっていかれて充実した日々を皆さんと送っていかれますようにと心よりお祈り申し上げます。

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有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

今あるものはいつかは無くなる、いまある体はいつかは老いて無くなる、人の気持ちも変わっていく。それを受け入れて生きていきたいと思います。
ありがとうございました。

Azuma様
お返事ありがとうございます。いつか命の終わりが来るときまで人間としての成長が出来たらなと思います。ありがとうございました。

「諸行無常」問答一覧

生家がなくなる

お忙しいところ恐れ入ります。 生家がなくなる寂しさについて、乗り越え方や考え方のヒントを頂戴したくご相談させてください。 この度両親が定年退職し、まったく縁のない地方に移住することになりました。 新居も購入済みで、本人たちは第二の人生ということでワクワクしているようです。 当然ながら実家はそのうち売りに出され、私には帰る実家や地元に帰る意味がなくなってしまいます。 地元が大好きで心の拠り所としていた私にとって、生家がなくなることは思っていた以上に辛く、なんだか宙ぶらりんになるような心地で辛いです。 (今は結婚して居場所もあり幸せではありますが、自分のルーツが無くなる感覚がとてつもなく寂しいです) 親本人たちが幸せなことが一番ではありますが、毒親で振り回されていたこともあり、「また振り回されるのか…」と思ってしまう面もあります。 いずれ年老いて親は先立ち、みんな遅かれ早かれ実家はなくなるものだと思いますが、まだアラサーです。 周りは慣れ親しんだ実家に帰って安心することができるのに、私はできない。 帰る場所が物理的に消える。 大事な柱を一本失ったようで、どうにも寂しく、内心受け入れられません。 実家や地元に対する執着だと思いますが、仏教ではどのように考えて気持ちを手放すのでしょうか。 ヒントをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

諸行無常、生きている人の心のあり方

亡き母は、ある事業を運営していましたが、まだこれからという時にがんがわかり、あっという間に亡くなりました。 子供の頃から情熱的に活動していた姿を見てきたので、どんなにか残念で、悔しかったことと思います。 私はすでに他の仕事をしていたこと、また、子供個人の幸せを願ってくれましたので、事業は継がず無くなりましたが、母の情熱、精神は忘れることはできません。 それから数年経ち、その経験は、自分の新しい仕事に活かしています。 いましんどく感じているのは、その業界でいわばライバル的存在だった事業が活動をしていることです。 その関係者とは、もと協力関係にありましたが、トラブルがあり、仲違いしました。気に入らない利用者は満足に面倒をみない等、自分勝手な事が多々ありました。 不誠実さを糾弾すれば、足並みを揃えないほうが悪いと。貸したものも返してもらえないままでした。母は不毛な争いを避け、思いやりを大切に、最後までこつこつ活動を続けました。 真面目に取り組んできたほうは追いやられ、力尽きてしまい、ずるいあちらはなぜいい思いをしているんだろう。そう感じてしまいます。 今でも時々夢に出てきて、むなしく思います。 利用している方々は悪意はないのでしょうが、付き合えるということは、自分勝手な人の集まりなのかも、と感じます。 事業に関わった多くの物品、思い出の品々も、捨てられず、そのままです。利用している方々のためにお譲りして、使っていただけたらとも思いましたが、あちらにお渡しするのも考えられません。 この気持ち、思い出、思い出の品々、 受け入れ方、消化の仕方、なにか手掛かりになるお言葉をいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 8
回答数回答 1

無常というものにひどく虚しさを感じます

大学受験間近の受験生です。 文には至らない点があるかもしれませんが、ご了承ください。 私の受験が近づいていくにつれて、親も私も不機嫌になったり口論することが増えていきました。その度に毎度「昔(幼少期)に戻りたい。」「祖父母がまだ元気で、仲の良かった親戚たちと定期的に集まっていたあの頃に戻りたい。」など過ぎた温かい記憶に縋ってしまいます。悲しくなって、ふと目に入った私が幼少期の時に母がせっせと作っていたアルバムを見て、大好きな母からの愛を改めて実感しました。しかし、今目の前にいる母親は、私が絡めば絡むほどやっぱり不機嫌になって向こうを向いてしまいます。それがとても悲しいです。私に勉強してほしいのは十分わかっていますし、母も仕事で疲れているのもわかっています。自分の合格が一番の親孝行というのも分かっています。 だらだらと前置き失礼しました。私の最も不安なことは、上手く言えないのですが、時間が自分の周りの環境をゆっくり壊しているような気がする事です。 今までの家族の幸せだった思い出と全く同じ体験はできず、また、これからの人生体験する楽しいことが全て「楽しかった過去」に変わっていくことにひどく虚しさを感じます。 まだ子供のくせにと思われるかもしれませんが、無常というこの世であたりまえであるものが受け入れきれません。 私はやはり考えすぎなのでしょうか? 時間が経つということが怖くて虚しいものだとマイナスな考え方をしてしまいます。 無常観についてどう考えるべきなのでしょうか?

有り難し有り難し 9
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「無常」について理解出来た気がするが…

初めて質問させて頂きます。長文になってしまい申し訳ございませんが、宜しくお願いします。 私は歴史が好きなのですが、とりわけ源平合戦が好きです。二つの氏族が覇権をかけて争う中での栄枯盛衰や、その過程での日本中を巻き込んだ争乱の数々。これ程までに歴史のダイナミズムを感じられる出来事は中々無いと思ったからです。 なので、先日神戸に行った際、一ノ谷の戦いの戦跡を巡ろうと思い立って観光し、道中、是非見たいと思っていた須磨寺に立ち寄りました。須磨寺には、宝物として平敦盛の武具や青葉の笛が置かれていることが有名ですが、これらを見た時、私は非常に大きな衝撃を受けました。 勿論、平家物語の「敦盛最期」は作中屈指の有名な悲話として、私も知ってはいました。しかし、それはあくまで「物語」としての認知に過ぎなかったのです。知識としては現実に起きた事だと知りつつも、現代とはあまりにもかけ離れた武士たちの世界観や壮絶な出来事の数々に、実感としては完全に物語上での出来事でした。 ですが、敦盛の遺品と、敦盛を殺した苦悩から出家した熊谷直実が、彼を弔うために書いた「南無阿弥陀仏」の掛け軸は、実際に寺にあったのです。 こうして、到底現実の出来事だと実感出来なかった源平合戦を、現実の出来事として否応なく突きつけられ、私は恐ろしくなりました。平家物語に登場し、様々な運命を辿った武将たちの人生もまた現実の物だと、同時に思い知らされたからです。 都での優雅な生活を捨て、戦いに身を投じる事を憐れみつつ奮戦して亡くなった者。戦いに勝利しつつも、哀れにも反逆者となり亡くなった者。戦乱の中で志半ばに自害した者。そして、熊谷直実のように出家した者。 また、源平合戦だけでなく、数々の戦争や動乱に人生を左右された無数の人々…。 歴史という大きな流れの中で翻弄されていく人々が現実に居たのだと、心から実感出来た時、歴史の中での個人の無力さと儚さに恐怖を感じ、平家物語が言わんとしている「無常」を、心の底から理解出来たような気がしました。 果たして、無常について理解出来たようなこの感覚は、悟りに近いような物なのでしょうか? 仏門に入ってもいない者が、軽々しく悟りなどと申し上げるのは気が引けるのですが、世の中に対する一つの見方が生まれたような感覚が不思議だったため、質問させて頂きました。

有り難し有り難し 5
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ