ある僧侶の死
前回の質問時に生じた質問です。
もう何年前のことだか正確に覚えていませんが・・・ある日のこと、前途ある若き僧侶が殺害されました。夜間、路上で危険行為をしていた青少年らを注意したところ、逆上した彼らに暴行され、その末に息を引き取ったそうです。
当時、この報道を偶然テレビで観ていた私はとてもショックを受けました。僧侶という特殊な立場の人が犠牲になったことや、私個人のそれまでの想いや経験とも重なったのでしょう。暫く、忘れられませんでした。けれども、年を経るごとに少しずつ忘れ、思い出すこともなくなりました。しかし、数年前にお坊さんが書いたあるエッセイを読んだ時、一気に思い出したのです。
そこには偶然にも、あの事件のことが書かれていました。もちろん、実名などの記載はありませんでしたが、私はフラッシュバックのように、当時、テレビに映し出されていた事件現場を思い出しました。どこにでもありそうな人気もまばらな夜間の風景、暗い夜道と街頭、街頭に照らされた白いガードレール、記事を読む女性アナウンサーの声。
筆者と被害者の男性は、修行道場で先輩・後輩の関係で、男性は修行を終えて実家のお寺に帰った後に急死。彼の父親であり、師匠でもある住職は、葬儀の挨拶の中で、こう述べたそうです。
「それでも、許さないといけないのでしょうかね・・・」
仏教の教えでも、何であっても、人は皆平等で、言動には大なり小なり理由があります。加害者となった青少年らにも、殺意があったかどうかはともかく、腹立ち紛れに暴力をふるった原因や理由がそれぞれあるでしょう。しかし、だからと言って許せるかどうかは、また別の話。けれど、許すか諦めるかしなければ、生きている限り、苦しみ続けなければならない。また、こういったことが二度と起こらないように、暴力事件の被害者の方々が活動しておられますが、その活動は別として、果たして、彼らに救いはあったのでしょうか。
「許す」って何なんでしょう。諦めたら救われるのか・・・ただ、どうしようもない「ままならぬのが人の世だ」と分かっただけではないのか・・・「救い」って一体、何なのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
言葉の限界
非常に難しい質問ですね。難しいというのは言語表現によって誤解を生じかねないという面においてです。
仏教においては最高の真実は言葉で表現できない(戯論寂滅)という原則があります。釈尊が正覚なされた内容は釈尊によって説法(言葉)で伝えられますが、その言葉はやはりあくまでも方便(手段)であって、言葉で表現できるものは仮の真実である世俗諦です。しかし我々はこの世俗諦を通してでしか最高の真実である勝義諦にはたどりつけないということもまた事実です。
言葉では伝えられないというのは下記のヴィドゲンシュタインの箱の中のカブトムシの例えが分かりやすいかと。
https://matome.naver.jp/odai/2144605837670516701
それでもあなたの質問に対し私も誠意をもって言葉を尽くしたいとは思います。しかしそれはあくまでも私の表現であって、それはあなたにも被害者にもhasunoha閲覧者にも押し付けるものではけしてないことはご了承ください。
そしてどこまでもこの事件における被害者の父親である住職さんの「救い」とは住職さん本人が証するものであって他方からとやかく言えるものではないことも押さえておきましょう。
ああ、前置きでかなりの字数を使ってしまいました…。
さて、浄土真宗の宗祖親鸞聖人は「さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいをもすべし」と我々の悲しい身の事実を言い当てます。
我々は縁さえ調えば人を100人でも1,000人でも殺すことがあり得るし、逆に殺せると思っても縁が調わなければ1人すら殺すこともかないません。(歎異抄第13章参照)
その「縁」に思いを馳せる時、思い通りにならないこの縁のなかで生かされている我々の救いをここであなた(住職さん)の表現をお借りして「許す」とするならば、その一言でも「何を」「どのように」という問題があります。
人心としてはやはり「相手を」「理解する」ことで許すというのは難しいものがあると思います。
我々に一つの光明が差すとするならば、その「縁を」-「認める」「受容・超越する」という意味での「許す」ということかもしれません。それは我々の思いが届かないこの世の厳しく悲しい事実を諦める(明らかに見る)ことで感得される言葉を超えたものであるのでしょう。
字数が足りず全然言い尽くせませんがとりあえずこれにて。
完璧に生きなくていい
前の質問…「なんで仏教を選んだの?」のご質問ですか。なるほど、じゃあそれに絡めて…
>婆羅門(バラモン、僧侶のこと)を打つなかれ
されど婆羅門は
これに怒(いかり)を放つなかれ
婆羅門をうつものに
わざわいあれ
されど
うたれて怒るものに
さらにわざわいあれ
(発句経389)
これは原始経典と呼ばれる特に古い層のお経に見えるお釈迦さまの言葉です。
お釈迦さまって時代とともにどんどん神格化されていき、無限の優しさに溢れた人物像になっていくんですけど、原始経典を見てると相当キレッキレな言動をする人なんですよ。他にも
>粗(そあら)なる
ことばをなすなかれ
言われたるもの
また なんじにかえさん
いかりに出づることばは
げに くるしみなり
返杖(しかえし)かならず
汝の身にいたらん
(同133)
とかね。頭ごなしに「許せ」なんて綺麗事を言わないんです。
「許せないよなぁ。理不尽だよなぁ。俺も怒りで拳が震えているよ。でも、復讐なんて馬鹿なことは考えるんじゃないぞ。恨んでも恨む心は自分を傷付けつづけるだけだ。過去に殴られた記憶をリピートして自分自身をセカンドレイプ、サードレイプするだけなんだぞ…」みたいな。
「ままならぬのが人の世だ」これを仏教では「一切皆苦」(いっさいかいく)と言います。そう、ままならない。
そのままならない世界をままならないままに生き抜く上で、必ずしも綺麗事の根性論をふりかざすわけではない。腹が煮えくりかえれば煮えくりかえってイイんです。時間をかけてゆっくり心情の変化を救いのある方角に調えていく。ままならない世界を思い通りにしてやろうとしている自分に気付いていく。でも、今はそれが出来なくてもいい。仕方ないよ、そう思っちゃうだけの環境にあなたはいる。
そんな等身大の道だから、私は安心してお釈迦さまについて行けるんです。
超越者
百万円を盗まれたら、許せないかもしれません。
しかし、100円だったら許せるかもしれません。
なぜ仏様は、殺人鬼でさえ許し慈しめるのか。
仏様にとっては、人の死が100円玉を落としたのと同じ程度だからかもしれません。
というのも、仏様は、私達生きとし生けるものどもが、はるか昔から何万回何億回も生まれかわり死にかわりを繰り返していることを知っているからです。
また、仏様は、罪を犯した者が来世以降に罪の報いでどれだけ苦しみを増やすかも予想されるのだと思います。
ですから、殺された善良な被害者が来世では幸せになり、殺した加害者が来世で苦しむという結末を考えたとき、仏様は、どちらが可哀想なのかも瞬時にわかるのかもしれません。
私達のような普通の人間には、そのような超越した心眼はないかもしれません。
しかし、私は、超越者であるブッダの智慧と慈悲を信じています。
きっと私が間違っていて仏様の説く慈悲の方が正しいんだろうな、それなのに怒ったり憎んだりしてしまう私はきっと愚か者なんだろうなと、結局私は、被害者や加害者のことより自分のことばかり考えてしまいます。
質問者からのお礼
お坊さんの皆さんへ
答えづらい質問に答えて下さって、ありがとうございます。
また、この問題について考えて下さった方、悩まれた方、心を痛めた方・・・すべての皆さんに深く頭を下げさせて頂きます。
吉武文法さん
状況さえ整えば、人はどんなことでもやる。状況で物事を捉える、という発想がありませんでした。どんな状況だって、迎合してしまう人と、立ち止まって考える人がいる。私は後者を選ぶべきで、そういう人になりたいとずっと思い続けてきました。分別を持ち「駄目なことは駄目だ」と実践することが人間の在り方で、状況が人をコントロールするのではなく、人が状況をコントロールするのだと。それ故、「環境に人は生かされている」という感覚がない。宇宙物理学では納得できるのに、人間社会という環境に適応できないのは、そういうことだったのかもしれません。そこから始めなければ「我々に一つの光明が差すならば・・・」というのも、きっと分からないと思います。
柳原貫道さん
>許さないということは・・・楽しい事も美しい事もそう思えない状態
その通りだと思います。そして、私も似たような状態で、永い暗闇の中にいます。許すことが出来ないので、何か他のものに目を向けることや頭の使い方を変えることしかできません。しかし、憎む相手を閉じ込めた牢獄は頑として居座り続けていて、時々存在を主張し、それに疲れた私はそろそろ出してやらねばなるまいとポケットを探るけれど、ふと気付く。鍵がない。今、そんな状態なんだと思います。
>許す事が正しいか正しくないか・・・許す事でしか救われない
私が気になったのは、正しいかどうかよりも「その鍵穴にその鍵は入るのか」ということです。仏教は役に立つ教えがたくさんありますが、時折、納得できないモヤモヤした気持ちになることがあります。例えるなら「理論的には可能だが、それは地球環境では不可能な実験」を推奨されているような気持ちです。
願誉浄史さん
釈尊が仰るような超越者だったとして、私もそれを信じることが出来るような人間だったら、私は今よりも楽に生きることが出来たかもしれません。
>結局、私は被害者や加害者より自分のことばかり・・・
私もそうなんだろうと思います。結局は等身大のその人よりも、過去の経験に当てはめて「自分だったら、こう思う。こう感じる」ところ留まり。なんて勝手な言い分だろうと思いますが、自分と同じような経験をした人には、何とか「独りじゃない、傍にいるぞ」と伝えたい。自分一人助けられないのに、他者を助けようとするのは、結局は過去の不幸な自分に対しての敵討ちなのかもしれません。
大慈さん
>お釈迦様って時代とともに神格化・・・
>必ずしも綺麗事の根性論を振りかざすわけではない
私が聞きたかったのは、これかもしれません。仏教を題材にしたものでも何でも、世にごまんと溢れるよくある自己啓発本のほとんどは、頭に花が咲いたような「ポジティブ信仰」で、正直うんざりげっそりで、時に「喧嘩売ってんのか」と言いたくなる。私が本当に聞きたいのは、仏教だろうが何だろうが「本当・本物」で、理性的かつ、思いやりに満ちているものであって欲しい。
>でも、今はそれが出来なくてもいい・・・
私はそう思うことは「自分を甘やかしている=言われてうれしい言葉を貰って喜んでいるだけ。それは問題解決に役に立たない」とひたすら自分に鞭打っていましたが、時には受け入れて、一回肩の力を抜いたほうがいいのかもしれません。拗らせ過ぎて簡単に解決できそうもありませんが、ちょっと癒されました。ありがとうございます。
回答下さった皆さんへ
納得出来ないお言葉もありましたが、それは「今」の話で「未来」を否定するものではありません。また読み返し、また質問し、理解したいと思っております。ありがとうございました。
柳原貫道さん(追記に寄せて)
ありがとうございます。
>認知の転換
>物語の世界の人
>仏教は万人の教えではなく、苦しみに堪え兼ねる人のためのもの
私の脳内でいろんな色の「?」マークがいっぱい乱立しています。ちょっと考えて、また質問させて頂きたいです。お答えいただけますと幸いです。