hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

人生の停滞

回答数回答 2
有り難し有り難し 42

 毎日が退屈で、人生に変化が感じられません。
 仕事が楽しい訳でもなく、成長している気もしません。
 仕事が終わってからもやることがなく、休みの日は寝ているだけです。 
 何もかもが行き詰まっていて、新しいこともやる気になれません。友達も彼女もいません。毎日が楽しくなく、つらいです。
 このままの状態がずっと続くと思うとしんどくなります。この停滞感を改善する方法はないでしょうか。知恵を貸してください。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

日本一の・・・

”新しいこともやる気になれません”
べつに新しい事なんかはじめなくてもいいんじゃない?

下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。
そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ。

阪急・東宝グループの創始者・小林一三のことばです。

おまえさんが毎日毎日つまらんつまらんと思ってやっている仕事でも、コイツに任せれば間違いない。必ず日本一の仕事をしてくれると思われるほどに極めれば、信用され信頼され、責任とやりがいのある役割がバンバン舞い込んできて、みんなから尊敬され、慕われ、おまえさんに憧れる女の一人や二人現れるに違いない。収入もきっとアップする。

いやぁ〜楽しいことばっかりやなぁ〜♫

ま、やるのかやらんのかは、おまえさん次第だけどな。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
【公認心理師】 【レンタルお坊さん】活動中。 とりあえず何でも相談してください。 でも、悪い事とやりたくないことはやりません。 https://www.facebook.com/rental.monk rental_monk hasunoha.tenrakuin@gmail.com
平日は夜間のみ対応可能。

停滞してるのは頭だけ 事実に停滞無し 真の諸行無常

川の流れの中に葉っぱがよどみにハマって、くるくる、くるくる、クルクルクルクルクルクルクルクルクレラップの曲くらいにくるくる回っていたとします。
それは停滞しているようでも本当は変化しているのです。
カベに貼りつけたセロテープだってしばらくすると取れなくなります。
アタマで眺めると「自分が思ったように捉え」ますから、停滞しているように感じるのです。
停滞しているように感じることと、実際に停滞していることとは違います。
事実は停滞しません。
いまだかつて停滞したことがありません。
誰も止めることはできません。
それは救いの法則なのです。
ストップウォッチでも、ディオ・ブランド―でさえも止めることはできません。
外の世界はとどまることがありません。
本当は現在のあなたの心が停滞してしまっているとみるべきでしょう。
自分の心が停滞するということは本当はないのですが、停滞感があるということです。
変化するものを眺めることです。
テレビの画面だって停滞しません。
停滞する。
変化する。
この事実を眺める時の注意点はネガティブにとらえないことです。
川の流れに対して「停滞している」と思いを重ねてみることは今の実際の事実の川の流れをみていません。カーナビや地図で描いた川の形は描かれた当時の川の形をしていますが、今の川の流れは流れている水もカタチも水の量も流れの速さも中にいる生物の量も温度も違うのです。
ここでいう川とはあなたの今眺めている世界のことです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

 とりあえず今の仕事を続けて、信頼を得られるように頑張ってみます。優秀な下駄番に成ります。
 ご回答ありがとうございます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ