不平等
ものすごくいい人なのに、ある日を境に病気ばかりし、最終的に我が子に手をあげられ、老人ホームで生活することになった人って何故なんでしょう?罰を受けるのなら、手を上げた人間が罰を受ければ良いのに病気一つせずにのびのび生活しています。ひどい目にあうなら、母ではなくて、私が病気になれば良いのに。私に改心させるために、身内を病気にしてるのでしょうか?親は関係ないだろうと思います。世の中不平等ですよね。いい人がひどい目にあって、手を上げた本人は健康そのものなんですもの。
何でもするから、親だけは助けてほしいです。
諸行無常も分かりました。世の中変わらないものはないことも分かりました。では何故善人である母が体が不自由になり、どうでも良い自分のような人間が健康体でいられるのでしょうか?
元の仲良し家族に戻りたい。今、家族間がめちゃくちゃです。姉とは二年近く絶縁に近いです。絶対に私の事を許したくないようです。私も今は姉を許せません。ですが、本心は前のように仲良くなりたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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平等ないのち
お母様の現実を見るといたたまれない気持ちになり、代われるものならとも思うのですね。しかしそれがかなわないこの世の現実に不条理さも感じておられるのですね。
「この世の中は不平等である」という論が成り立つとすればそれは「ある一定の視点」から見つめた場合はそう言えるかもしれません。
例えば「私にとって」と言う場合。人間はどうしても自分中心に考えますからそのままの自分の目で世の中を見ると不平等になってしまいます。
「明けない夜はない」の問いでも答えさせていただきましたが「良い・悪い」は物事・出来事にあるのでなく、それを捉える個人の解釈にあります。私が良いと思うから良い、悪いと思うから悪いのであって、その私の解釈を基準とするならば世の中は不平等にしか考えられないでしょう。
その世の中において釈尊が目覚めたのは平等のいのちです。良い・悪いではなく、ものごとはそうなる原因があってそうなっている。全ては因縁(直接的原因と間接的原因)の赴くままに…です。
これは運命論ではありません。全部決まってしまっているのではなく、その都度その都度の因縁によって次の果(結果)が生じます。
しかし基本的にはその因縁は選べません。思う通りにはならないのです。この思う通りにはならないという事実に謙虚に頭が下がり、いただいた因縁を受け入れられるよう智慧に目覚めるならば不条理な世の中の見え方も変わってくるでしょう。
今はお母様をホームに入れてしまったという罪悪感や、しかし現実には他にどうにもならないといった歯がゆさをお抱えの事でしょう。
でもそれも因縁です。そうなるべく因縁がととのったのです。あなただけの責任ではありません。同時にあなたと因縁は無関係でもありません。
老人をみて、己が若さもやがて老いるべき若さなるを知り
病人をみて、健やかなるもやがて病むべき健やかさなるを知り
死人をみて、生もまたやがて死すべき生なるを知る
そして…
生を見て、そもそも私は何一つ私の意志で選んでなどいなかったのだという因縁の事実を知る
私たちは生まれた時から既にして何一つ私の思う通りになど選んでこなかったのです。この事実は万人にとって平等です。
どうかご自身を責めるのでなく、因縁の事実に身をゆだねて…。またいつでもご相談ください。
不平等ではありません。
老人は将来の自分の姿、病人は将来の自分の姿。
あなたもいづれはそうなるのです。
今は健康なのですから、今できることにしっかりと取り組んでくださいね。
あなたの幸せは親にとっても幸せなのですからね。
質問者からのお礼
三宅様、吉武様、お忙しい中回答ありがとうございました。
親が老いるのも分かります。いつまでも元気でいられないのも分かります。勿論私も、いずれ老人になり、病気になり、いつか死んでいく。では何故、善人がそれまでの生活が台無しになるほどの病気をしなければならないのか?って思ってました。
昨日、お見舞いに行った時に、もう泣いて謝るのは、辞めて欲しいと母に言われました。お母さんは元気になるから頑張るから、そうやって泣いて謝るのはもう辞めて欲しいと思いました。病気になっても、どんな風になっても親は親で私は子供なんだと思いました。まだまだ、問題は山積みです。でも、命は平等なんだと、本人はこんなに頑張ってるんだと思いました。
子供が幸せにならないと。
また、色んな考えが出て来て悩むと思います。なのでこれからも、宜しくお願いします。
昨日、お礼文を書いて送信したつもりで消えてました。ご連絡遅くなりすみません。