人間の不平等について感じる事があります。
人は生まれながら生活環境や体力的なもの、容姿、等努力では変えられないものでハンディを持ってますよね。
もうすぐ50代ですが、それなりに必死に努力して働く意味を感じて来ましたが、最近、自分の努力ではどうしようもない点で評価を受けてる同僚を見るとやり切れないです。私の今までの苦労は無駄骨だったのかな、と思ってしまいます。
また、他人の見えない努力やいいところよりちょっとしたミスなどをあげつらう世の中もとても残念に思いますが、こんな時、どういう気持ちで仕事に取り組めば良いでしょうか?
お坊さんからの回答 2件
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無駄かを考える
こんにちは。「努力しても無駄なのかも」という考えは、時々よぎることがありますね。自分なりに頑張ったけれど、思い通りにならなかった。効果がなかったのかなって。
仏教では「物事は因と縁によっておこる」と説いています。つまり「自分で何とかなる部分と、ならない部分がある」ということ。「願えば叶う」「努力すれば報われる」「自業自得」はいずれも、後者つまり環境や条件の力を軽視していると思えます。
そしてあなたの信奉している「努力」だって、やはり環境の影響を受けています。たくさん本を読みたいと思っても、家事だってやらなきゃならない。「心置きなく勉強できる」のも、それができる環境だからこそ。
では逆に、努力は無意味と言いたいのか?と感じるかも知れません。いいえ、そんな単純な話でもありません。避けるべきは、この単純さです。「因」だってもちろん結果に影響を及ぼします。着地点は「努力は結果に向かって進む可能性がある」程度です。
「行為が、必ず望んだ結果を出す」というのは、それこそ宗教的な世界です。理屈で成り立っていますからね。自動販売機でさえ、電気が通っているという縁がなければ物を買えないのですから。
今までの苦労は無駄骨だったのか。イエスともノーとも分からない問いです。どの苦労が?を特定もできませんし、今は無駄と思ってものちのち効いてくることもあります。
この問いは、ご自身が棺桶に入る時まで取っておいて良いのではないでしょうか。私はそう決意しています。
動物は人間ほど努力しない
人間には将来の目標という概念を意識して計画的・継続的に努力する能力があります。
他の動物にはそれは難しい。
ですから、動物達は生まれたままの才能や容姿で勝負しています。
それでふるいにかけられる。
たとえば鳥の中にはメスがオスの容姿で結婚相手を選ぶものがあります。
ライオンの雄は、たてがみの色が黒いほどモテるそうです。
彼らにとてってはルッキズムこそが強い遺伝子を残すための工夫なのです。
ですから人間社会も、基本的には遺伝子の比べっこであり、より優れた子孫を残すために社会でふるいにかけられて自然淘汰されるだけなのではないでしょうか。
ですから、社会においてあまり平等や均等にこだわりすぎると怒り憎しみ嫉妬悲しみの原因になり、ストレスになります。
どうせできることしかできない人生です。
今できることをできる範囲でやれば合格人生。
そこから先の他人からの評価や勝ち負け損得は、社会や自然にお任せしましょう。
たまたま親からもらった才能や財産がこの程度だっただけ。
たまたま生まれた環境が悪かっただけ。
たまたま私の得意なことと現在の職種で求められるスキルが合わない(合っている)だけ。
自分を責めず、他人を羨まず、淡々と暮らしながら日常生活を楽しみましょう。
ただ一つ平等なことは、皆必ず死ぬということ。
浄土宗では、誰でも南無阿弥陀仏と念仏を口ずさめば来世で極楽浄土に生まれられると考えます。
この世は不平等ですが、仏様の慈悲は平等なのです。
なぜなら、極楽浄土は阿弥陀仏が修行の結果造り上げた人工的な楽園だからです。