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精神障害者は不幸ではないか?

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有り難し有り難し 46

僕は,双極性障害で二度の医療保護入院歴があります.
入院中など,障害に振り回されてるときは,「自分はロボットじゃないか?」等障害による極端な妄想で心が一杯になり,かなりしんどい思いをしました.
また,今は病状が安定してるのですが,「いつ,あの状態になるかわからない.」という不安は常につきまといます.

僕の障害は薬で寛解(完治ではないが症状を抑えきっている状態)に持っていけるそうですが,各種パーソナリティ障害,発達障害など,薬が未開発で,寛解すら難しい障害(障害の程度によっては,手の施しようがなく自死に至る)も多々あります.

重ねて言うなら,僕は高学歴なのですがそれでも障害のため,就職が厳しく,社会から必要とされてない気すらします.

乙武洋匡さんの有名な言葉に「障害は不便だけど不幸じゃない」という言葉があります.でも,それは身体障害者に限った話ではないでしょうか?

僕は,「身体障害は不便だけど不幸じゃない,精神障害は不幸だけど不便じゃない」と感じます.

お坊さん方は如何お考えでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お経の文に「幸せ」が見当たらない。。。

頭の中では幸せか不幸せかを決めたくなりますが、
幸せなときも不幸せなときも、胸に手を当てると心臓はどっちも動いています。
脈拍の差こそありますが、生きる理由に幸せかどうかはあまり関係ないのかもしれません。

幸せという字について、字解(白川静著)という書物では「手枷をはめられた罪人が思っていた罪よりも軽くてラッキー」ということが成り立ち。と書かれてありました。
何かとの比較の上でしか成立しない幸福なら不安定で抽象的で振り回されやすいのも理解できます。

就職しなきゃ、誰かから必要とされなきゃ生きてる意味がないという娑婆の考えは、
ややもすると弱者の差別や排他の思想を生み出しそうです。
私の宗旨の仏教は排他ではなく利他の教え。

僕が不勉強なだけかもしれませんが、
浄土真宗のお経に「幸せ」を見たことないんです。
唯一ある「幸仏信明」という言葉には「ねがわくは」とフリガナが打ってあります。

障害があろうと無かろうと、職が無くても、必要とされたり認められる実感がなくても、誰かの幸せを願うことができます。

私が幸せでありますように。
私じゃない誰かが幸せでありますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。

黒井様の健康を念じます。

++++
追記、拝見していろいろ触発される思いはあります。
わたしも聖者ではないのでいつも頭の中に後光がさしているわけではないです。
べてるの家さんの当事者研究であるような幻聴さんや幻覚さんというように客観視できる境地に達しきれない部分もあります。
でもゴメンナサイ。
黒井様の文章に触発された僕の中の思いを文章としてまとめる自信が無いので拝見させていただいたことだけ記します。
聴かせてくれてありがとうございました。

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質問者からのお礼

質問に関する追記をする欄が見当たらないので,ここにもう少し追記をさせて下さい.

障害に振り回されてる時(特に病状が酷い時)は考え方の問題ではなく,生理現象として強烈な不幸感を感じます.それは,もはや不幸といって差し支えないと僕は考えています.
それは決して不幸を感じるのを障害のせいにしているのではなく,「眠たいからあくびが出る.」のと同じレヴェルで「病状が酷いから強烈な不安,希死念慮を,自分の無価値さを尋常ではないほど感じる」つまり,現実として障害が不幸を生み出していると考えられます.
こればっかりは,経験してみないとわからない話な上に最初の投稿が拙かったため追記させていただきました.

また,お礼を追記できるようなので改めてお坊さん方にお礼を追記させていただこうと思っています.
よろしくお願いします.

精神障害者の窮状を知っていただいただけでもありがたしです.
良き医師と仏縁に恵まれて幸せになれるよう無理なく努力したいところです.
ありがとうございました.

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