誰も自分を受け入れてくれない
以前同じような質問をさせていただき、一時的に気が楽になり、自分からも少しぐらい関わりにいってみよう、と思ったのですが結局、
自分なんか受け入れてもらえないんじゃないか、なんの取り柄もなく一緒にいて楽しい訳でもなにか得がある訳でもない自分なんか一緒にいなくないんじゃないか、と思ってしまい、全然話せずに今までのまま一人で文句ばかり言って泣いています。
どうしたらこのような考えを捨て去り、人との関わりが楽になるでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
使う言葉は、ときには魔法になる◎ 大切なのは、捉え方だよ。
一人は、寂しいね。悲しくなっちゃうね。
ねぇ。どうしたら、受け入れてもらえる、って思う?
仲良く会話したら? 認めてもらえたら?遊びに誘ってもらえたら?
じゃ、人は、どんな人に寄っていくと思う?
私は、どんな人間なんだろう。
一体、どうなりたいんだろう。
答えが出ないから、悩むし、気持ちがモヤモヤしちゃうよね。
みんなそう。自分のことがよく分からないし、なりたい自分も見えない。だから、どうやったら受け入れられるか、みんな悩みながら なんだよ。
でもね。マイナスの言葉を使うと、気持ちまで そうなっちゃう。一種の暗示だよ。周りも感じちゃうの。
だって、私なんて、無理、出来ない、、、
状況は、そうなっていってしまう。
ストレスも増すわ。
大切なのは、捉え方だよ。
大丈夫、私こそ、私だから、出来る、
使う言葉は、ときには魔法になる◎
気持ちが前向きになるような、言葉にも意識してみて。
それが出来ない、何かがあるなら、また一緒に話そう。
誰もが独りです
そんなふうに感じているのはあなたばかりではありません。私と同年の歌人、俵万智さんはたくさん恋愛の短歌を作っておられます。ある歌集の最後の作品に、
愛された記憶はどこか透明でいつでも一人いつだって一人
というものがあります。数多くの恋をなさったのでしょうが、結局は孤独感なんですね。よく「カノジョいない歴●年」とかいいます。彼女がいればハッピーと思いがちですが、恋人がいてもやっぱり孤独なんです。友達がたくさんいて楽しそうに見える人も実は孤独です。瀬戸内寂聴さんですらそうおっしゃっているくらいですから、これを書いている私など当然、独りです。
それでも、ということでしたら、誰かになにかしてもらう方向ではなく、なにかしてさしあげる方向で具体的に動いてみることではないでしょうか。
先日、あるキリスト教会の日曜礼拝にお邪魔しました。私は仏教寺院の住職ですが、宗教や宗派はあまり気にしないんです。お邪魔していみるとその日は偶然、バーベキューの日でした。火を起したり、焼きそばをつくったり、肉を焼いたりしているうちに、信者さんたちと話せるようになりました。昼から法事ということも多いので、午前中に行われるキリスト教会の日曜礼拝で新たな知り合いを得ることができそうです。
Facebookなどを利用すれば、単なる知り合いでいいならいくらでも話し相手を増やすことができます。
けれども本当に深い知己を得るのは容易ではなく、そんな人を得ようとするなら、してもらうではなく、させてもらうの精神でつながりをつくっていくことではないでしょうか。