モヤモヤしてしまったので・・・
いつもお世話になっております。
貧しい人や罪を犯してしまう人、何も悪いことをしていないのに苛められる人、いろいろな人がいますが、そういう人たちは社会にとってそのような役を担わされた人たちで役に立っていると考えるようになりました。その役の中で修行しているのだと。本人にとってはいい迷惑だと思いますが、そういう運回りだったのだとおもいます。
熱帯や亜熱帯の汽水域に生えているマングローブの中には、葉っぱに塩分を貯めて落とすことで塩分排出を行っているそうです。その細胞にとっては、命を絶たれることになります。でも、個体生存には必要なことです。それを可哀想だとは誰も言いません。
ある猿は、雄が猿山を乗っ取ると、集団内の子どもをその雄が噛み殺すそうです。生物学的には、強い遺伝子を残すためだと言われています。
人間社会は、宇宙空間から紫外線、地球環境の変化、人間関係、仕事などのストレスを受けます。社会維持のために、弱い立場の人にストレスが集まり、ある人は自殺をし、ある人は罪を犯し、ある人は精神がおかしくなる。自然科学や社会科学、人権意識が発展していなかった頃は、処刑や監禁などして排除していたのだと思います。結果、社会からストレスが排除されたのだと考えました。人という種の維持のために必要なのかもしれません。だから、今起こっている社会現象を改善するのは無理で、人間の力の及ばないところなのだと思います。
全ての人が住みやすい社会にするためには、学校教育や家庭教育、各分野の教育が大切だと思います。必要なときに必要なことを学び直すことができる仕組みがあればいいですが、難しいかもしれません。専門的な知見や知恵は、かなり蓄積されていると思うのですが。
貧しくても、病弱でも、自分のすぐ周りの人の不安を取り除いたり、高めたりすることができれば、役割を果たしたことになるのではないかと思いました。
目に見えない微生物も、人間に嫌われる虫も、生態系の中では立派に役割を果たしている。見方を変えれば、尊敬できる存在になるのかなと考えました。
今の社会は、自分も含む縁の中で成り立っている。自分の中の悪いストレスを処理し、いかにいい波動を出すか?
穏やかに折り合いをつけて振る舞える人間になれたらなと思っています。
SNSでは書けないこともあり、モヤモヤを吐き出してしまいました。すみません・・・。
我が強い。保身のために、人を妬んだり、羨んだり、言い訳をしたりする。気持ちに余裕がなくなると、怒ってしまう。愚痴を言ってしまう。過去に学んだことに執着してしまう。未来に対して余計な不安がある。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ニルバーナ
ライオンの子殺しとかも同じですね。
お釈迦さまはそんな弱肉強食のあり方を私の知る限り、邪悪とは言っていません。邪悪と言っていませんが、「苦だよね」と考えていらっしゃいました。
なるほど、そりゃですわな。苦でしょう。そのような役を担わされた人にとってはいい迷惑ですし、担わなくてもモヤモヤします。そして老いや病を得れば、いずれそのような役を担わなければならなくなるでしょう。
さらに言えば、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天、これらの六道は全部、苦なんです。
何が言いたいかというと、天も苦界ということは、どれだけ社会を発展させて理想郷を創り上げたとしても、人は苦しもう苦しもうとするということだろうなと私は考えています。
何故か?今の日本は飢えることはほとんど無くなりました。それどころかほとんどの人が昔の大名や公卿よりも豊かな食文化に触れています。医療も発達しました。交通も通信も同じ生物とは思えないほど発展しています。消防も救急も警察も教育も…
なのに、心を病む人は後を絶たないのです。だったら、社会の発展のための犠牲って、何なの?結局苦しみ続けるのに犠牲を払うって、何なの?という話です。
社会的な知識が貯まっても、議論の大半はWikipediaに書いてある次元の知識すら踏まえない堂々巡りの言い合いです。専門家が精査しても、そんな民意が「違う気がする」と言えばオジャンです。
じゃあ救いって何なのか?
それは六道輪廻からの解脱…つまり良い悪い、有意義無意味、好き嫌い、尊敬軽蔑…そんな『見做す癖』を止めてしまうことです。
どんなにアキレウスが亀に追いついても亀が進み続ける限り、離れては追い付きを永遠に繰り返すように、より良いものを求める心が満足に決着を付けることはありません。
だったら亀を止まらせねばならない。つまり『見做す癖』を止めねばならない。それがお釈迦さまの視点です。
そして人は本来、生きようとする心や幸せを感じ取る心を産まれ持っています。そこに意味や役割という後付けのモノサシでカサブタをせず、逆に産まれ持ったソレに委ねてしまえる人、それが仏教の目指す穏やかな人です。その委ねる行いが坐禅だったり念仏だったりするわけですね。そんなことをやって、広めてみませんか?
もちろん医療や社会の発展は大切なことですが、同時にやっていかないといけないんです
質問者からのお礼
〉大慈 様
ご回答、ありがとうございました。
この数年、心身の調子を崩してしまい、仕事を休んでいます。デイケアで、認知行動療法やストレスケアなどについて学びましたが、本で読んだ仏教と共通する点がありました。
科学の知見はだいぶ蓄積されましたが、まだほとんど分かっていません。座禅などはお釈迦様をはじめ、先人が一生懸命考えて閃いたことだと思うので、科学や社会の発展と同時に広めたいものですよね。
理想郷は、理論的には可能だと思います。極楽の食堂と地獄の食堂の話のように、与え合えればいいと思います。ただ、そのためには教育が必要です。全ての人に、極楽の食堂はいいよと言うと、価値観の押し付けになってしまうかもしれません。極楽の食堂を選ぶも、地獄の食堂を選ぶも、その人の自由だと思います。地獄の食堂から極楽の食堂へ移る手助けは必要だと思いました。
六道輪廻からの解脱・・・、ニュートラルな視点で物事を見ることが大切なのかもしれませんね。