他人を赦せるようになりたい
自分に甘く、他人に厳しい性格で苦しんでいます。
昔から「他人のミスを赦す」ということが苦手で、たとえば街中に出かけると、「これだけ混んでるならみんな右側を通ればいいのに、なぜみんなでたらめに歩くのだろう」、車を運転すれば「なぜこんなに無茶な割り込みをしてくるのだろう」と、些細なことでいらいらしてしまいます。
外に出かけるといらいらするので、家で過ごすことが多くなり、ますます他人との接点が少なくなっていきます。
(仕事は定職について一応きちんと働いています)
他人を赦せるようになれれば、自分が楽になれるとおもうのですが、その赦し方がわかりません。
「相手の立場になって考える」というのも、結局、自分の価値観を相手に押し付けてしまうだけで、本当に「相手の立場になって考える」ということがなんなのか、いまだにわかりません。
どうすれば相手の立場で考え、相手を赦せるようになるでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
無意味に急ぐのは怠け。頭が良い人は怒らない。
他人を赦せないエピソードを拝見したところ、いずれも、自分の行動や仕事を邪魔された(自分のやりたいことに遅れを生じさせられた)場面に見えます。
まず、何をそんなに急でいたのでしょう?本当に急ぐ必要がある場面なのでしょうか?
「早くすませたい」「さっさと終わらせたい」「試行錯誤して考えるのは面倒、シンプルにしてほしい」という考えがあるのかも。
つまり、怠けの煩悩(集中力を使いたくない)があるのです。
他人が何か失敗しても、絶体絶命になる場面は少ないです。ちょっと集中力を使って工夫したり回り道を考えたら、たいした障害にはならない失敗が大半でしょう。
「なんで失敗するんだ!」ではなく、「オッケー、ここで失敗したらこの作戦でいけばいいさ」と、スマートに対処できたらカッコイイでしょう。
みもふたもない言い方をすると、頭が良い人は怒る必要がない、頭が悪いと怒るのです。
もちろん、私も頭が悪いから怒ります。
頭を良くするには、集中力を出して(怠けと戦って)冷静に次の作戦を考えなければなりません。
自分も怒るから頭が良くないが、他人も頭が良くないから失敗するわけで、「おたがいさま」ですね。
仏様は怒らないのです。智慧(ちえ)がすごいから。お釈迦様は殺人鬼でも憎まず弟子にしました。
考え方ではなく、相手をそのままに見ること
自分の価値判断、思い込みの上で人を見るのではなく、そうしたものをすべて取っ払った状態で相手を見ていたら、たいていのことは赦すことができます。
自分(自我)を手放し、相手を見るのです。考え以前で相手を見るのです。
そうしたことを仏教では教えます。
質問者からのお礼
願誉浄史 和尚
ありがとうございます。
>怠けの煩悩(集中力を使いたくない)
これはあると思います。
怒ることで何か自分自身が得をするのか?
むしろ怒っているぶんだけ、自分が損をするのではないか?
そうやって気持ちを整理しようとしたこともありますが、損得勘定ではなく、
問答無用に「腹が立つ、赦せない」ので苦しんでいます。。。
邦元 和尚
ありがとうございます。
>自分(自我)を手放し、相手を見るのです
この教えは非常に興味があります。
もう少し詳しく教えていただけませんでしょうか?
もしくは自身で学ぶためのキーワードだけでも教えていただければ幸いです。