極楽浄土への行き方
最近、生きとし生けるもののはかなさや、努力しても業ばかりを積んでしまうおのれの無力さを噛みしめる毎日です…。自力救済の困難さを痛感する日々です…。
そんなこんなで、浄土真宗の教えを学ぼうと色々と調べたのですが、詳細かつ信憑性のあるできる情報があまり得られず…。寺院やご住職さんが書かれた記事などがほとんどなかったのです。
そこで、浄土真宗のご住職様方にお伺いしたいと思ったのです。来世で極楽往生するための方法を、詳細に教えていただきたいです。
①念仏と②信心が必要だとは伺ったのですが、本当でしょうか? 信心を得るというのが抽象的な気がするのですが、具体的にはどのようにすればよろしいでしょうか?
また、どのような人間も、極楽浄土に行くことができるのでしょうか?どうかご教示くださいm(__)m
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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若一日、若二日、若三日、若四日、、、
”具体的にはどのようにすればよろしいでしょうか?”
「真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。」『教行信証』で親鸞さんはそう教えてくださった。
ホンモノの信心には必ず念仏がセットだ。だからといって、念仏には必ずしも信心がセットだとは限らない。でも信心はなくとも念仏はある。念仏抜きに信心は得られない。念仏とは「なむあみだぶつ」と声に出して唱える事をいう。
例えば、本田圭佑はサッカーの素晴らしさを誰よりも理解している。サッカーの【信心】を獲得しているわけだ。なぜならば、誰よりも一生懸命にサッカーの練習を重ね、追求してきたからだ。でも、もしサッカーを一生懸命に練習し追求してくることがなかったならば、あんなふうに活躍することもなかっただろうし、今ほどサッカーを愛し理解することもなかっただろう。
これと同じです。念仏の素晴らしさ、尊さ、つまりお念仏の功徳利益で極楽浄土に往生することが決定したぞ!! お念仏ってすごいわ!!という確信【信心】の獲得は、念仏を申す先にこそある。念仏を唱える事が大前提だということ。まぁ、よくよく考えてみりゃ当たり前な話だよね。
だから、まずは念仏申す日々を送ってみて下さい。
”どのような人間も、極楽浄土に行くことができるのでしょうか?”
「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀と名づけたてまつる」『浄土和讃』で親鸞さんはそう教えてくださった。
阿弥陀さんがみそなわしておられるのは「一切衆生」とは言っていない。でも「信心獲得の衆生」とも限定していない、他ならぬ「念仏の衆生」だそうな。ということは、どのような人でも念仏申すという条件を満たしているのならば極楽浄土に行くことができるという事です。
<追記>
”他力念仏を続けさせていただけばよいのかもしれない”
そうです。【難信此法】ま、信じらないよね、フツー。
文字数に限りがある為、いささか乱暴な説明申し訳ないです。拝
質問者からのお礼
転落院様、早速のご回答ありがとうございます!
日々念仏をお唱えし、信心の獲得を目指したいと思います。ただ、念仏をお唱えするという条件を満たしていれば極楽浄土に行かせていただけるのであれば、若一日、若二日と、他力念仏を続けさせていただけばよいのかもしれないとも思いますが…。
転落院様、追記ありがとうございます!
難信此法…。信じたい気持は非常に強いのですが…。まだ確信には至れないのです><
念仏を続けつつ、法話などのご縁も大事にしていければと思います…。