お金の苦しみから解放
私が開放されたい苦しみはお金の苦しみです。
お金がない。将来のお金の心配。それらから解き放たれることが望みです。
仏教はあらゆる苦しみから救われることが目的とのことですが仏教ではお金の苦しみから人を救うことはできないのでは?お金の苦しみから救うことができるのはお金のみでは?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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惑業苦
ご相談拝読しました。
おっしゃる通り、お金の苦しみから人を救うことが出来るのはお金でしょう。お金の苦しみは大変に大きいです。ですからお金は大事です。仏教はそれを否定するものではないでしょう。
しかし、お金の苦しみからお金で救われた状態すらも仏教では苦しみのなかにあると説きます。お金による救いは未だ苦しみを生み出すサイクルの中にあるのです。
惑業苦(わくごっく・わくごうく)と言います。
惑とは煩悩による迷い
業とは行い
苦は思い通りにならないこと
惑:煩悩による迷いによってお金を得ることが救いだと認識する
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業:お金を得る行為を行う
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苦:お金を手に入れてもお金を失いたくない不安が生じる。お金では買えないものは手に入らない。
迷いの中で迷いから出ようとする行為を行っても苦を生み出すサイクルからは抜けられないということです。
まあ、苦の部分の例は色々考えられますが、お金があっても不幸でいる方、満たされない方は沢山いるのはご承知の通りです。
貧困という苦しみは確かに大きく、お金で救われる部分はかなり大きいというのは私も同感です。
しかし、その救いは根本的救いではないと見るのが仏教です。けしてお金による救いを否定するわけではなく、あらゆる苦を生み出すサイクルから抜け出すという根本的な救いを目指しましょうというのが仏教です。
欲しいものを与えるとか病気を治すとか失恋の苦しみをいやすとか、そのように対処療法的に人々のあらゆる悩み苦しみを緩和しようというものが仏教ではありません。
苦しみを生み出す根本を自己の内に見出し、その自己から解脱し、真の自己に成りましょうというのが仏教です。
最後に何度でも言いますが、けしてお金の救いを否定はしません。それは政治や社会保障など世間的な救いとして重要なものです。
仏教が目指すところはそうした世間的な価値観を超えた出世間的な救いです。しかし出世間的な救いが世間的な要素に無効だとは私は思いません。それでも仏教が処世術ではないことは断言できます。