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またココにきてしまいました。(~_~;)

回答数回答 2
有り難し有り難し 9

彼の死から半年経とうとしています。一ヶ月経った頃にはある男性と再会をしました。
12月からは私を支えてくれる存在になりましたが、今回は、その彼についての悩みです。
最近になって、彼が鬱病だと分かりました。3年前に会社を8ヶ月休んだようです。本人は、幼少期からこれはダメだあれにしろ!と感情を出すことを許されなかった、時々自分がどんな感情でいるのかわからない、どうしたいのか分からなくなるんだ。と話していました。
薬も何種類か服薬しています。

副作用で性欲がない、薬を少なくするようにしてる。頑張る!とも話してました。
しかし、1月の会社がスタートしてからだと思いますが、急に連絡が取りにくくなり、鬱のスイッチが入ってしまった様子です。無気力、1人になりたい。1人でじっとする時間が大切なんだ。と。

LINEは何時間も既読がつかない、反応が薄い。そうなると亡くなった彼とのLINEのやりとりがフラッシュバックしてしまい、死んだのか?朝方になっても連絡がとれないとやばい。私は2人も殺してしまうのか、次は後追いしか考えられない、十字架を2つも背負うのは無理だ。と少しパニックになってしまった日があります。1人にするのが怖い、ただただ怖い気持ちになります。
その後、休みの日に押しかけるかたちで私から会いに行きましたが、目を合わせると反らされ、拒まれることが多くありました。無口で心がわからない。
初めは少しずつ回復していくものだから、一緒に見守ろう。と思いましたが、もう2週間…不安になってきました。

そして、服薬している薬の一つはデゾラムと言う、安定剤でした。依存性は高いです。なかなかやめることは難しい。
私はどうしたらいいのか分かりません。今の彼は私の良き理解者であり、一緒にいる時には心が穏やかになる存在でした。でも、不安で仕方ない。亡くなった彼も、最後の日は精神安定剤を飲んでました。正しい飲み方をすれば安全だと思います。ですが、今はこういった不安からは離れたいのです。
彼と距離を置くべきか、いっそう別れて逃げてしまおうか。でも、見放したらまた死んでしまうかもしれない、私を受け入れてくれる人なのに…
私は疫病神なのだと思い悩む事もあります。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたはあなたを生きる他ない

元々誰かと居なきゃいけないわけではありません。
人間関係もそこに依存すれば、陶酔、酔いの一種です。
仏教では、人を酔わすものに依存するなと説いています。
適度な距離を持つことです。
過干渉も酔いの一種。
病気になったのはアンタじゃない。
治す、治るのもあなたじゃない。彼自身。
気持ちを注ぎ過ぎた事が前回の悩みの根源です。
今回はそれを教訓にせよと教えてくれているのだと感じ取ることです。
あなたを一番苦しめているのは、この自分を自分だ自分だと(無自覚に)極端に思い込み、自分のルールがどんどん作られ、自分の物語がどんどん生ずる中で、その物語に縛られている事が苦しみの種となっています。
こう言っちゃ失礼に聞こえるかもしれませんが、自分をあまり主人公主人公、ヒロインヒロインにさせないことですよ。これはどういう意味かと言いますと、あまりアタマの中で自分を中心としたものの見方になっていく事で、周りが見えなくなってしまう状態を引き起こしてしまうのです。
彼には彼のストーリーあり。
あなたはあなたを生きればよいのです。
手放してあげることで人間はお互い自由になれるものです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

お互い依存しあうことのこわさ

きっと彼とあなたと、お互い心の面で不安定なところお互いの考え方の共通点があり、なんとなく安心できるからと言って一緒に居るのでしょう。そこで依存してしまっているのです。
彼へのラインが既読になる。ならない。返事が遅い。などそれは相手の生活のペースがある。
干渉するところではありません。
あなたの方に気持ちを向ける心のゆとりがないのであれば、ゆっくりと待ってあげたらいい。もしあなたと離れたいのであれば、離れればいい。
それしかないのです。

依存すると自分の我の押し付けになり、相手を愛しているようでいて、大切にできなくなります。嫉妬も度が過ぎれば、相手に嫌がられるでしょ。

あなたは、あなたの生き方を見つけ、常に彼のことばかりでなく、自分の人生を生きてください。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。
あれから彼との中は上手くいかず、振られました(^.^)
でも、離れて気づきました、彼が1番好きです。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ