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お祈り(供養)と座禅(瞑想)の作法について

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先週も質問させて頂いたPalmです。その節はありがとうございました。

早速、近所のお寺さん(無宗派・単立)で、お祈りと瞑想をさせて頂きました。
そこで、疑問がいくつか湧き上がって参りました。
正しい作法かどうか、教えて頂けませんでしょうか?

(1)友人の供養
若くして亡くなった友人はさぞ悔しい思いをしているだろう、
残されたご家族も悲しく不安だろう、と勝手に想像して、
「友人の魂が成仏しますように」、
「ご家族を見守ってくれますように」と祈るとともに、
お寺に設けられている護摩木にも書かせて頂いているのですが、
そういう祈り方で大丈夫でしょうか?

また、そのお寺では、護摩供養を来週行うようなのですが、
参列しても問題ないでしょうか?

(間違ったことをして、かえって変な事態を招かないだろうかと
不安になりました。)

(2)座禅・瞑想について
そのお寺さんでは、週末にお堂を開放されていて
自由に瞑想してもよいとのことで、使わせて頂いたのですが、
特に作法の指導はなかったので、
自由にお祈りをしたり、深呼吸をしたりして過ごしました。

そういう作法で問題ないでしょうか?
あるいは、きちんと座禅の指導も受けてみた方がよいでしょうか?

お忙しい中、読んで頂きありがとうございます。
よろしくご指導をお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

わたし を しない

坐禅は自分をしない
坐禅はわたしをしない
坐禅はわたくししない
坐禅は自分を持ち込まない
坐禅はそれをやめたこころ

ということもしない。
時間のある時に当山の日曜参禅会にお越しください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元様
ご回答いただきありがとうございます。

仏教には、坐禅という側面と、祈りという側面があるということでしょうか。
祈りの作法については、当該お寺さんのご住職に直接伺ってみます。

Facebookアカウントをお持ちとのことですので、登録させて頂きます。
いつか参禅会に伺わせて頂きます。

ありがとうございました。

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