先祖供養について
お世話になっております。
種々の僧侶様が、先祖供養の重要性を説いていらっしゃいます。
「布施」の概念だったり、施餓鬼における「回向」の概念だったり、先祖による「守護」の概念だったり、「滅罪生善」の概念だったり…。
素晴らしいと思います。
祈願が叶わないときには、まずは回向をと言われる方もいらっしゃいます。
それほどまでに供養・回向というものは仏教にとって重要な概念かと思います。
私自身もお寺に供養をお願いしたり、施餓鬼を申し込んだりしております。
ですがその際、少し疑問が生じるのです。
①「●●家先祖代々の霊位」だけで仏さまに通じるのか?同姓同名がたくさんいるなかで、どこの「●●家」なのか特定する必要はないのか?というものです。
ここには、一応「自身の思いがあれば特定はそれでよい。仏さまはわかってくれる。」と解釈していますが、それでよいのでしょうか。
②もう1点、上記①がそれでよいとすると、専ら供養の本質は「供養したい」という施主の主観によるものになると思いますが、そうすると、世間を騒がせている霊感商法まがいの「壺を買って先祖供養」などのものも、施主が「供養したい」という思いから出ているため、実際に功徳は生じ、回向されるものなのでしょうか?
(もちろん、この結論とは別に、社会悪として霊感商法は駆逐されるべきですが。)
法外な値段をとるかどうか、供養の動機付けが恐怖心に漬け込むものなのかどうかは別として、霊感商法もお寺での供養も「施主の思いをかたちにする」という意味では変わりはないのではないかとも考えてしまいます。
これに関しては、お寺では「如法」という確立した方法論があるという結論になるのでしょうか。
決して先祖供養を否定するつもりはないのですが、どうもそのところが腑に落ちません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
行う本人の安心ではあるけれど。
こんばんは。ご先祖供養について、現実的に真摯に捉えておいでであることを、まずは素晴らしいと存じます。
①わたしの知る限りですが、お施餓鬼などで回向する際には「施主誰々、手向ける先の何々家」とします。それによって「何処の」何々家であるかは特定されています。結婚などで姓が変わっても、その関係性は保たれていると考えます。
②供養や回向というのは、本質的に誰でも可能なことです。決して坊さんや特別な人だけではない。少なくとも私は「皆さんで一緒にご供養する。その先頭に立っているのが坊さん」という認識です。世界的に見れば「専門家」として捉えられる事も多いですが、日本の大乗仏教は基本的に「私も一緒に供養します」というスタンスです。「供養したい」という発端の願いに対して、「では、やってあげましょう」ではないのです。また、あなたの仰る「法外なお金、恐怖への漬け込み」はやっぱり問題外だと思います。むしろ「お金を払ったから安心」と言わせてしまうのは如何なものか、と思います。
先祖供養というのも、私は「自分は一人で生まれて生きているのではない。いただいた命なのだ」ということを最も直接的に理解させてくれる、その「縁の中に生きている」ことを自覚する事に意味があるのだと考えています。「縁の中に生きており、自らあるべくように努力する」、そんな生き方を促してくれるのが、この娑婆にあって生きてゆく者の、先祖供養が持つ力なのではないでしょうか。