独学で行う“印”と“真言”について
初めまして、私は仏様を側に感じたい時やお寺で参拝する時に印を結び、真言を唱えている破戒するヒトと申します。
私の結ぶ印や唱える真言は師に習ったものではありません、ネットや書籍で調べたものです。
本当は出家をして師に習うのが一番だと言うのは分かりますが、どうしても人が苦手で集団に溶け込んで修行する自分が想像出来なくて、独学でまったりと学ぼうとしています。
このように独学で印や真言を調べるなかで「印は行者しか結んではならない」「印や真言は誰が行おうと構わない」「師に習わない印や真言に効力は無い」「軽い気持ちで印を結べば仏罰がくだる」…など様々な情報が入り乱れて混乱します。
ただそれでも私自身に「印を結び、真言を唱えたい」という欲求が合ったので都合の悪い情報は気にしないようにして印と真言をしてきました。
ちなみに理由は魔法使いみたいで格好が良いから、または自分はいま仏様に近付く修行している…といった心地のよい感覚があり、このまま根気よく続けていれば仏様との間に、より濃密なご縁を頂けるかも…なんて期待をしつつやっていました。
しかし時に後ろめたさの様な物を感じる事があります。この行為はもしかしたら仏様に対し失礼に当たるのではないかと。
とある質問サイトでこのような事を質問してみても意見はバラバラでどうすれば良いか分かりません。
このような混乱と欲求と後ろめたさが入り乱れ撹拌されてか、今朝の夢のなかでお坊さんに「真言や印は欲望で行うものではない、貴方が好意でそのように行動しても仏様は迷惑だと感じるだろう」と言われました。
すみません、あくまで夢の中のお話です
でもとても鮮明な夢で「仏様は迷惑だと感じるだろう」という言葉が突き刺さり、堪らずこちらのサイトに登録を行い質問をさせてもらいました。
もしも夢など紛い物で無いお坊さんにそのように言われれば、私はキッパリと印と真言の欲求は断ち切るつもりです。
しかし私の欲求として仏様の迷惑にならないなら印を結び真言を唱えたいです。
どうしたら良いでしょうか。
分かりにくい所があったらすみません。
混乱と欲求が激しく渦巻いてそれ以外の事が考えられません。
どうか回答お願いします。
・家族が遠く離れている、友達もいない、師もいない、社会との繋がりもないヒト。 ・“悟り”よりも“ご縁”を求めて足りない頭で神道の神様や仏教の仏様の事をまったり独学で勉強中。 ・子供の頃の嫌な思い出を思い出したりして独りで勝手にイライラしたりする感情に支配されるヒト。 ・自分の欲望を抑えたりするのがとても苦手なヒト。 ・遠く離れている家族の幸せや神仏とのご縁を願ってよく神社やお寺をお参りしてるヒト。
あらゆる煩悩が形を成したのが自分だと思います。 煩悩をとり除いたら自分が自分で無くなる気がして怖いので「煩悩を受け入れつつなんとか出来ないか」と今は道を模索しています。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
独学の危険性
はじめまして。ご相談拝読しました。
私は浄土真宗の僧侶ですので印と真言についてはお答えできないのですが、仏教では基本的には独学は歓迎・推奨されるところではありません。
仏教初期の頃からサンガ(修行のための手段生活を営む組織)を形成してきました。仏教徒であるならば仏・法・僧の三つの宝を敬うこととなりますがこの僧とはお坊さん個人のことではなくサンガ(僧伽)のことです。
しかしそれは、出家(ここでは各宗派で僧侶となるのに必要な儀式・手続きの意味)して僧侶になるのではなく、個人の信仰や学びとして仏教に親しむ方にまで独学を禁止するものではありません。
でもやはり、そうした方であってもより深く学ぶのであれば独学ではなく、なんらかの形のサンガ(ここでは教えを他者と共に学ぶ場の意味)を求めることをオススメします。
なぜならば独学は独りよがりの自己満足に陥る危険性が高いからです。そしてその自己満足は自己だけにおさまらずそれを誰かに披露もしたくなる可能性も有しています。
なお、釈尊は無師独悟と言われ、それはその悟りのために師は必要なかったという意味だと思われますが、仏伝によると道を求めた当初はやはり師のもとで学ばれています。
そして釈尊以降は師のもとで学ばず自ら悟ったものは独覚(どっかく)と呼ばれ、その悟りは不完全なものとされます。
なぜここまで独学がネガティブに言われるかというと、それは人間の持つ自己中心性というか、どこまでも自分の都合を求めてしまう愚かさが仏教の長い歴史の中で見抜かれ、戒められてきたからでしょう。
浄土真宗でもこうした独りよがりの学びを疑城胎宮(ぎじょうたいぐう)と言います。真理を疑うがゆえに留まる城です。
しかしそれは母の胎内にいるのごとく居心地がいいのです。居心地がいいからこそ根が深い問題なのです。
あなたが「心地のよい感覚」とおっしゃることにも少しそうした危うさを感じてしまいます。
あなたの独学が仏様にとって迷惑などということはありませんが、あなたにとって迷惑とならないことを願います。
自分の都合や居心地のよさから一歩も外に出ないような学びは果たして本当の学びなのか、そのことは一度深く自身に問うてみてください。
これからもあなたの学びは是非続けていただきたいですが、できればお寺などに足を運ぶなどして何らかのサンガを求めてみましょう。
合掌という印母。
初めまして。
質問拝読しました。
印がなんとなくカッコいい。小説やマンガ等、創作物では印はカッコよく描かれますし、お気持ちはなんとなくわかります。また、その手の相談はたまに受けますが、印は単なるポーズではありません。印は師匠、阿闍梨から伝授を受けて初めて意味をなします。ネットや書籍で独学で学んだ印では不十分です。
不十分な理由は大きく三つあります。
一つ目は密教では教えを正確に間違えなく伝えていく為に法流(教えの系譜)を大切にします。そして、師は弟子の能力、修行の習熟度を見て、それに応じて教えを伝えます。師より授かっていない修法は間違いであり、越三昧耶の罪、越法罪という密教の中で非常に重い罪です。
二つ目は印と真言には観想が伴います。三つが揃って身・口・意の三密となり仏の世界(真理の世界)とリンクします。印と真言だけでは不十分です。
三つ目はネットや一般の書籍では口伝が省かれています。口伝とは師から弟子に文書ではなく口伝いに受け継がれてきたもので、それが省かれているというのは一番大事な部分が抜け落ちている状態です。
そのような状況で印を結んだところで、厳しい言い方をすれば独りよがりの自己満足で終わってしまいます。
ただ一方で師より伝授を受けなくとも結べる印があります。合掌という印です。印の母、印母(いんも)とも呼ばれます。合掌という印を結んで真言を唱えていただければ良いかと思います。
今の時代は簡単に様々な情報が手に入ります。だからこそ情報の取捨選択が非常に重要であり、こと密教においては情報の取捨選択の目安が師匠からの教えや代々伝わる口訣、口伝にあります。
情報の取捨選択ができなければ迷い、誤解、不信だけが残り、信を深め真の心の安らぎを得ることはできないでしょう。
参考になれば幸いです。
合掌
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
疑城胎宮ですね、初めて聞きました。
自分自身の心地よさばかり追いかけ回して完全に疑城胎宮の境地に陥っていると知りました。
少し頭を冷やします。
落ち着いたら決して独り善がりにならず“教えを他者と共に学ぶ場”を探してみます。
回答ありがとうございました🍀🍀🍀🍀
沙門 亮鷹さま ご回答ありがとうございます
越三昧耶の罪…キチンと学んだつもりでした、そのような罪があるのは初めて知りました…。
そして“合掌”が印母と呼ばれる事も今知りました、ありがとうございます。
独学では肝心な根底部分が分からない事だらけだと改めて感じました。
いずれ師に出会うまでは合掌でお参りします。
回答ありがとうございました🍀🍀🍀🍀