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光明真言について

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私は毎朝宗派は違うのですが、般若心経と13仏御真言、観音経を唱えています。これから光明真言もお唱えしようと思っています。
光明真言は毎日唱えて良いのでしょうか?
教えて下さい。

宜しくお願いします

2023年3月3日 0:06

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私だったらですが、その光明真言の導かんとする本来の法の様子を明らかにしたいと思います。
唱えることも大切です。
その内容を明らかにすることも大事です。
お釈迦さまの在世の頃も、意味が分からないことを唱えていたとは考えにくいですし、人が悟りや涅槃という聡明さ、安らぎにいたるためにこそお経や真言を念ぜられていたのではないかと思います。
私も修行道場時代は意味も分からずに一生懸命真言を唱えていた時もありますが、ある時から、その真意を明らかにしたいと思うようになりました。
知らずに唱えていることで満足な時期もありましたが、ある時からその真意を明らかにしたいと思うようになり、生きた真言、生きたお経、お釈迦様のように生きた説法をすることが大事だと思うようになりました。
これは人によってその感じ方は異なるものだと思います。
もし、そういう機会が生じましたら、光明とはいかなるものかと追及する気持ちを持って菩提心を奮い起こしてみてください。
光明真言の功徳により、多くの人たちが救われる力が発動されることでしょう。
般若心経も読むことも功徳。
記すことも功徳。
やることも功徳です。
空、不生不滅、不垢不浄、不増不減という心を明らかにしたり、
一切の顛倒夢想を遠離できるようになりたいと思いませんか。
そういう気持ちがわくように毎日念じ、どくじゅなさってください。

2023年3月3日 9:18
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答有難う御座いました。
とても参考になりました。
もっと、仏様の事を深く知りたいと思いました。

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