人間とは?この世で生きるための心構えとは?
お久しぶりです。
この1ヶ月、身体面では不調なことはありますが、精神面では安定しています。講演会などに参加し、いろいろな方の話を聞いて学んでいます。
仕事で人間を相手にしていますので、どうしても「人間とは?」と考えてしまいます。
以前、hasunohaへの問答で、性善説の立場であると述べさせていただきました。しかし、人間は「悪」の要素が強く、性悪説の立場になりました。
他の生き物は、個体維持や種族維持以外には、他を侵害したり、欲を持ったりしません。生存が約束されている限り、他の動物も人間と同じように優しい心を持っています。
人間が、他の生き物と違うのは「欲」を持っていることです。
「人民を支配したい」、「美味しいものをたくさん食べたい」、「快適なところに住みたい」、「大きなところに住みたい」。「~たい」ばかりだと気づきました。その点において、他の生物とは違うのだと思います。
性悪説の立場に立ってから、自分に対しても、他人に対しても期待をしなくなりました。それで、精神的に安定しているのかなと思います。
交渉をすることもありますが、ダメもとで構えているので、拒否されても「そうだよね」って心構えでいられますし、いい結果になれば感謝の気持ちが生まれます。
いろいろな事件や情勢を見ても、あらゆる可能性を想定することができるので、あまり怒りの感情を持たなくなりました。
差別が生じるのは、「自分達の生存や生活が脅かされる可能性があるから」だと思います。精神障害者などの差別も、突き詰めれば患者の心理状況が理解できなかったり、自分の生活に悪影響があると思っていたりするからでしょう。私だって、訳のわからないものはまず距離を取って様子を見ます。そういうことを考えると、差別が生まれるのも仕方ないと思います。
「悪を憎む心」と「寛容な心」は両立しないのではないかと思うようになりました。
行いは罰しなければなりません。しかし、その先の原因を解消しなければ、罰しても意味がないのではと思います。
人間について考えると難しく、その人間を教育するのは難しいなと思います。自分はそんなに人を導く立場にないと思います。
まとまりがなく申し訳ありません。
人間とは何なのでしょうか?
我が強い。保身のために、人を妬んだり、羨んだり、言い訳をしたりする。気持ちに余裕がなくなると、怒ってしまう。愚痴を言ってしまう。過去に学んだことに執着してしまう。未来に対して余計な不安がある。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
因縁所生
ひろしさんは何事も真面目に真剣に観察し考察しておられると拝察しております。それだけに、人間を固定的に捉えようとしているように感じます。質問への直接の答えになるかどうかわかりませんが、私なりの思う所を述べさせていただきます。
お釈迦さまは性善説にも性悪説にも立たず、無記(どちらでも無い)という立場で居られたと思います。要は、我々の行為(因)とそれを取り巻く条件(縁)によって、行為が成立ち、結果が生じます。現実は、単純な数式のように「因・縁・果」をクリアに分析できるものではありません。表面には見えない色々な条件が複雑に重なりあって、今の現実が生じているとしか言いようがありません。
我々の出来ることは限られていると思います。「善い種を蒔く。」「善きご縁に感謝する」これらのことに尽きると思います。そして、これらのことをより正確に実践するために、見仏聞法等の修行があります。
と書きながらも、私自身の日常は決して「行持綿密(一投一足のすべてが教えにかなった修行となっている)」ではありません。恥ずかしながら、寝坊することもあります。怠惰な時もあります。葬儀や法事が立て込むと、そちらの準備に忙殺されることもあります。仏弟子であることに感謝し、仏弟子としての精進を誓って礼拝読経する時もありますが。弱くだらしない人間ですが、一生懸命仏弟子の真似事を努めさせていただく時もあります。善くもなるし、悪くもなります。道心堅固に精進する時も有れば、怠惰に時を過ごすときもあります。
道元禅師は『正法眼蔵随聞記』の中で「古人いわく(霧の中を行けば覚えざるに衣しめる)と。よき人に近づけば、覚えざるによき人となるなり」と説いています。心を洗い、心を磨く。そういう環境に身を置くことで、人は良き方に変わっていく。そういう可能性を信じ、そういう場と機会を持ちましょう。
人間は社会で対応できる
たとえば、事件が起きたら、被害者と加害者だけではなく、裁判所という中立的な第三者が加わることができます。
それが人間社会のすばらしい点でしょうね。
当事者同士だと感情的になって、欲や怒りや怠けやプライドがぐちゃぐちゃになってしまう。
そこに、冷静な第三者を呼んでくる。
教師にも、冷静な第三者としての役割が少なからずあると思います。
質問者からのお礼
>吉田俊英 様
ご回答、ありがとうございました。
私は、人間は立体的な網目構造のようなものだと考えています。その結び目が個の人。実際は、人は意志を持ち、活動する存在なので、人間社会は複雑なものだと思います。人は環境により変わりうる存在なので、性善説か性悪説かと単純に述べることはできないですね。
「心を洗い、心を磨く。そういう環境に身を置くことで、人は良き方に変わっていく。そういう可能性を信じ、そういう場と機会を持ちましょう」、善い種を蒔けるように私自身を高めていきます!
>柳原貫道 様
ご回答、ありがとうございました。
「誰しも煩悩を抱えているのです。
その煩悩が大きければ、側から見て悪人に見えるとは言えませんか?」、確かにそうですね。このような見方をすると、悪人は社会に対する煩悩を多く抱えた人ということになりませんか?そこから学ばなければならないはずなのに、当人を処罰するだけになってしまっています。ある意味救わなければならない存在だと思うのですが。
「導くという事ですが、釈尊も百発百中で悟りに至らせるとは言いませんでした。
「私は道を教えるのみだ。」と言ったのです。」、道を歩くのは本人ですから、道を指し示すことしかできないですね。
>願誉浄史 様
ご回答、ありがとうございました。
中立な立場も、「両者の折り合いをつける支援」という新たな役割が必要なのかもしれないと思いました。勝訴か、敗訴かではなく、その間に着地する視点が、これから必要なのだと思いました。