慈悲とは人に強いるものですか?
数ヵ月も前の出来事なのですが、あれからずっと心に引っかかっていたので、僭越ながら質問させてください。
仕事で疲れ、一刻も早く休みたいと考えていました。明日は友人と久々に約束があったこともあり、余計に休みたいと思っていました。
自室で一息ついていると、私の父に会いに来た近所の子が、私に会いたいと呼びました。
私は一度顔を見せれば良かったのですが、その時は疲労から、感情的な、あまり余所の子供の前に出せないような気分だったので、無言でやり過ごそうとしてしまいました。
するとそれを父が怒り、私を咎めました。
「お前は子供の言うこと一つ聞かないで自分の部屋に閉じ籠るなんて!"慈悲"がない酷い奴だ。」と。
父は熱心な仏教徒なので、私は本当にいけないことをしてしまったと感じると共に、疲れているのだから本当に、本当に勘弁してほしいと泣きながら言い返してしまいました。
私は自分の家でもある空間に、他人が来て私物を弄られることに慣れていません。残念ながら好みもしません。
田舎は子供を近所の人達で育てることなど普通なのだから、慣れていなくてもそれが当たり前なのだと返されました。
その後は大喧嘩でした。
今は落ち着いていますが、なぜかあの時に言われた"慈悲"という言葉が気になっています。
慈悲とは何でしょうか。
人に強いるものなのでしょうか?
人は形振り構わずに慈悲に答えなければいけないのでしょうか?
また感情的になってしまったので、もしかしたら文章が乱れているかもしれません。
読みにくかったらすみません。
良ければ回答をよろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
慈悲は増やせば増やすほど、自分が幸せになれる
慈悲とは、他者の幸せを願い、他者の悩み苦しみを減らしたいと願う心です。
そして、慈悲の心が発動しているときは、怒りが発動しません。
怒っているとき、気分が悪いのは怒っている本人、自分自身です。
怒る回数を減らした方が、人生の嫌な時間が減る。
慈悲を発動させている時間を増やすことは、怒りの時間を減らすこと、つまりは嫌な時間が減ること。
疲れていて嫌な気分になりやすい(怒りやすい)ときに、穏やかな慈悲の心になることができれば、嫌な気分にならないのです。
ですから、自分で意識的に、強制的にでも慈悲の心を持つのは良いことです。
他人に慈悲を勧めることも良いことです。
とはいえ、人にはそれぞれ能力の違いがあります。
疲れているときでもウキウキ気分になれる人は能力が高いのですが、皆がそうではない。
今のあなたは、仏様や菩薩様のような能力を持っていないので、慈悲(怒らず慈しむ)を勧められても、対応できなかった。
そこは、今後鍛えてゆく方が良いです。
慈悲を増やせば、幸せを感じやすい性格になりますから、自分が得をします。
お父様は、慈悲と言いながら、あなたに怒ったんですね。
お父様が怒っているとき、お父様の心からも慈悲は消えていたのです。
怒りだけでなく、欲・怠け・プライドなどの煩悩も、慈悲を邪魔することがあります。
お父様は、近所の子供を楽しませたいという、自分自身の欲とか、良い格好しておもてなししたいというプライドが働き、あなたに対する慈悲(疲れてると言うなら今日は許してやろう等)を忘れていたのでしょうね。
だから、お互い様ですね。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
慈悲というもの、中々難しいです。しかし今後の参考にもしていきたいです。
熱心な方でも、慈悲を忘れてしまうのですね。もしかしたら父も疲れていたのかもしれません。仕方ないと思えました。
改めて、お答えいただきありがとうございます。
慈悲という言葉、その意味をもう少しかみ砕いて理解しながら、生きていこうと思います。
失礼しました。