自己犠牲を美化する風潮
どうしてこの国では自己犠牲を素晴らしいことかのようにいうのでしょうか。
特に母親の自己犠牲を美化する風潮が強いと思います。
私の母は周囲からの育児に対するプレッシャーで精神的にまいってしまいました。
仕事も夢も捨てさせられ、お洒落も一切許されず、幼い私の相手をしながら死んだ魚のような目をした母の姿を今も覚えています。
ところが周りはその姿を持て囃すわけです。
自己を犠牲にして育児を頑張る素晴らしい母親だと。
私はそれが悲しかった。
そういう考えが蔓延しているからこそ、母は追い込まれてしまったというのに。
感謝こそすれど無理なんてしてほしくありませんでした。
もっと自由に生きて笑顔を見せてほしかった。
恩返しする前に亡くなってしまいました。
今でも母親の無償の愛を持て囃す話を聞くと耳を塞ぎたくなります。
あなたたちは母親が自己を犠牲にしている姿を見て嬉しいですかと聞きたくなります。
何でこんな悲しい国になってしまったのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
悲しみの原因はどこにあるか
ご相談拝読しました。
お母様への思いをお聞かせくださりありがとうございます。そしてまた、世間を取り巻く風潮についての危惧もお聞かせいただきました。悲しみをともにさせていただきたいと思います。
おっしゃるような風潮は確かにこの国にあるような気が私もいたします。いや、この国だけではなく、もしかしたら世界、もっと言うならば人間にそのような傾向があるとも言えるのかもしれません。
それはものごとをありのままに見れないという悲しさです。どこまでも「自分の思い」というフィルターを通してでしかものごとをみれない。
そこに、あなたのおっしゃる「自己犠牲を美化する風潮」をはじめ、本来ありのままのものごとに様々な「思い」や「ストーリー」を上書きしていくという悲しさがあるのでしょう。
今、甲子園では秋田県の金足農業高校の活躍が話題になっていますが、その高校の農場長さんは「人間は言葉でごまかすことができるが、動物や植物はそうはいかない」という様なことをおっしゃっていました。
あなたのお母様の苦しみも、「自己犠牲」「無償の愛」「献身的な姿勢」というような誰かの「言葉」や「思い」や「ストーリー」によってごまかされてしまったところもあるのでしょうか。
ただ苦しいという「事実」が上書きされてごまかされてしまう。
その「事実」を「事実」として見るのが仏様の「如実知見(にょじつちけん)」という見方です。
上書きしない、解釈しない、ごまかさない。だからそこには苦しみがない。
しかし私たち人間はそこから一歩足した「言葉」によってでしか「表現」できない。そこに「事実」とのずれが生じてしまう。
願わくばそのずれが取り返しのつかない悲しみを生むことのないようにあって欲しいと思います。
言葉で傷つく私たちは言葉で救われもする。
しかし、本来は言葉を通して言葉を超えた事実・ありのままの世界に触れるからこその救いなのかもしれません。
あなたがあなたの悲しみを言葉にしてくださったこの問答が誰かの、そして誰よりもあなた自身の救いになっていくことを願います。
耳触りのいい言葉でごまかしたいとは思いません。納得のいくまで、いつでもまたご質問ください。
質問者からのお礼
吉武文法様
私の書き込みが同じ悲しみをもつ人の励ましになればこれほど嬉しいことはありません。
前向きな本音を書き込んで下さりありがとうございます。