私が存在する不思議
こんにちは。前々から考えていた事です。変なヤツと思われるかも知れませんが、お付き合い頂ければ幸いです。
私は私として存在しています。当たり前ですが、これってすごい不思議ですよね。なぜ「私」は私以外の誰でもなく「私」なのでしょうか?そしてこれを読んで頂いている「あなた」も何故あなた以外の誰でもなく「あなた」なのでしょう?
またこの宇宙も「この宇宙」として存在してます。これも不思議です。別の物質や法則、公理体型で成立してる宇宙だって理論上存在するけど、なぜ私が見てるのは「この宇宙」なのか。そもそも、時間も空間も無い完全な「無」であったっておかしくないのに。
一見、宇宙は私の意思に関係なく存続しているし、私も宇宙の意思(そんなのがあるとして)に無関係に振る舞ってます。そう考えると私と宇宙は互いに疎外されてます。パスカル流に言えば「宇宙の沈黙に私は恐怖する」です。私はカトリック系の大学で物理学を学んでいましたが、数式ばかりを弄ぶ大学物理に困惑しました。キリスト教や西洋哲学に救いを求めましたが、答えは結局得られませんでした。(足踏みはしたけど無事卒業はできました。今思えば、物理学やキリスト教に問題があるのでなく、私の心持ちにも責任の一端はあるのですが)
最近思うのですが、実在ではなく「はたらき」としての「仏」が私と宇宙を結び付けてるのではないのでしょうか。大気や水のように。丁度、水が魚個体の生存を可能にして魚と生態系を分かちがたく結び付けてるように。
私が真言を唱えるのも、唱える主体として私があり、響く場所として宇宙があり、響く媒体(大気のような働きとしての仏)があるから例えば「ぎゃていぎゃてい」の真言が響くのではないでしょうか。
大日如来・久遠実成・阿弥陀仏・清浄法身等様々な呼び方はありますが。
その意味で真言・念仏・題目・あるいは座禅は同じ境地かと。何故なら私の場合は真言ですが、もし私の家が浄土教なら「なぜ念仏なの?」と疑問に思っただろうし、日蓮宗の生まれなら「なぜ題目?」禅宗なら「なぜ座禅?」と考え、結局同じ結論に至っただろうと思うからです。
人と宇宙が結ばれてる「そのこと」に対する驚き・畏敬・感謝をこめて真言は唱えるものだと最近考えてますが如何でしょうか。(究極的には念仏・題目・座禅も)
お付き合いありがとうございます。
ご意見頂ければ幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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量子力学的にも
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
量子力学の「量子もつれ」と「ベルの定理」、あるいは、「シュレーディンガーの猫」、更には「M理論」の話などを想起いたすところであります。
如来と世界と私・・
その繋がりは、量子力学上、また、仏教的見地からも申せば、あると言えるのではないだろうかと拙生も存じます。
その繋がりを、善き仏縁と共に、悟りへと向けて確実に活かして参りたいものであると存じております。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
川口英俊 様
ご回答ありがとうございます。
私のたわ事にお付き合いして下さる方がいて大変嬉しいです。
川口師の博学には大変恐れ入ります。シュレーディンガー方程式、私も大分苦闘しました。
シュレーディンガーの猫は、今も物理学科の学生達を苦しめてる事でしょう(笑)
宇宙と言う表現が大げさなら、世界、自然、他者・・等と呼ぶべきでしょうが、「それ」と私が繋がっているって、素晴らしい事ですねよね。
その繋がりを信じて、人生に仏道実践に精進させて頂きたいと思います。
私が私である事実、考えればとても深いです。
物理学も深いです。
仏教も深いです。
自分でも理由はよく解りませんが、仏教は好きです。