コミュ障で卑屈になる
こんにちは。
中学生の時から悩んでいることがあります。
友達に相談しようにも、友達は私と似ているので違う考えを持つ方に相談したいと思いました。
まず私は
(顔がいもくさい。不細工。
(話が下手で説明力がない。ユーモアがない、が、かといって人見知りでもない。私がつまらない人って分かっても、冷たくされないだろうから、優しそうな顔の人には自分から話しかけられる。(この人を顔で選ぶ性悪も嫌です…)
自分に面白さがないと気づいたのは、人が私と二人で話して爆笑することがほぼないから。また今まで二人で遊びに行こう!と誘われたことがないから。です。
だから卑屈になってしまいます。
いわゆるイケイケ系のかっこいい人や可愛い人に対して、(私と話してもつまらないから早く話をやめないと…。)とか思う。だから話しかけられてもキョドってしまう。
つらいのは、イケイケ系な人が気になっても自分からアプローチできないこと。あと、有難いことに私が告白されても断ってしまうこと。
理由はどちらも(私は知れば知るほどつまらない人間だから知らない方がいい。残念に思われたくないし知られたくない。恥ずかしい。って思ってしまう。そして前者に対しては、私は不細工だから迷惑かなとも思います。)
語彙力不足や説明力不足には、本を読むといいと聞きます。好きな作家がいてそれを何度も読んでいるけれど、改善された気がしません。(因みに椎名誠や野田知佑)
顔が悪くても話が楽しければ人と、交流するのが楽しいでしょう。話が下手でも美人だったらまだ救いようがあるのに。と思ってしまいます。
話が下手で卑屈になり、親友は1人いるかいないかだし、誰ともお付き合いをしたことがありません。
これらが私の悩みの全てです。どうしたらユーモアのある人になれるのでしょう。自信のある人間になりたいです。私なんかが…ではなく私はこうしたい。と行動できる人になりたいです。
どうぞよろしくお願いいたします💧
優柔不断 無い物ねだり? 心配性 社会を知らないと思います 野田知佑さんの『旅へ』の野田さんの苦しさが分かる気がします。でも私と違うのは行動力があることかな…。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
本もいいけど、やっぱり現実の体験に勝るものはない
本を読むことをいいと一般的には言います。しかし私はいけないとは思いませんが、本ばかり読んで時間を過ごしている人は現実を見ていないようにも感じます。
本の世界、想像幻想妄想の世界の楽しさではなく、目や耳、鼻、舌、身体を使って感じるリアルの素晴らしさがあるのではないかと思います。
目や耳、鼻、舌、身体を五感とも言いますが、これは事実をありのままに映し出す素敵なものです。目は人を偏見では見ません。イケイケ系とかいう見方をしません。ありのまま。自分を鏡で見たときと同じように誰もを映し出しています。そこに優劣や、好き嫌いはありません。
こうでなければ。こうあるべき。こんな自分は・・・←これらは全部自分の我見による評価に過ぎません。ジブンという勝手な価値評価をする人間のわがままによりこれはいいとか、いけないとかやっているだけの話だけです。
現実はその価値評価以前にあります。人間の力が及ぶ前のリアル世界は、誰をも同じように見ることができ、自由な世界です。
そこにこうあるべき、こうでなければならない、なんてものは一切ないのです。あなたはあなたのままでいい。自然体でいい。嫌ならみんな離れていく。しかし、あなたを好きになってくれる人がいるの事実。それを否定してしまうのはあなたのエゴです。
あなたにはきっと魅力があるのです。あなたの自然体が、あなたをより自由にしてくれるはずです。つまり、五感優先の生き方をするのです。事実最優先です。
質問者からのお礼
理想が高いせいで、ありのままの自分をこれ以上人にばれるのが恥ずかしいっておもってしまいます。
じぶんを好きになるのが必要なのですね…。