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死生観について

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僕は高校3年の男です。まず、僕は常日頃漠然と死にたいと考えています。(現実から逃れたい、が近いのかもしれません。)

若いくせに知った風な口を利くなと思われるかもしれませんが、生きるということは辛いことの連続にしか思えず、まだ何十年も生きると思うと気が滅入ります。

しかし、こんな僕に彼女ができました。彼女は僕のことをよく理解してくれて、彼女のためなら生きたいと思います。(もともと、彼女に告白して振られたら死んでしまおうかとも思っていました。)

ですが、その彼女ともこれからどうなるかわかりません。もし仮に彼女を失ってしまった場合、僕は何を生きがいにして生きていけばいいのかわからず、不安です。(趣味はありますがそのために生きようとは思えません。)

万一、彼女を失ったらいよいよ死んでしまうのではないかと思います。

僕はおかしいのでしょうか?賛同でも反論でも結構ですからご意見を聞かせてください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

普通なんですよ。

いたって普通の人が誰しも一度は考える死生観です。

仏教でも同じように「生死一如(しょうじいちにょ)」と言葉がございます。

生きるも死ぬも紙一重というそのまあまの言葉であり、紙にも表裏が必ずあるように、いつも生と死は隣り合わせにいるのです。

そんな中で、家族を持つ家庭では家族を失うと生きる意味が無くなると日々思っています。死にたいという勇気を持たれるのであれば、何でも挑戦できるということでもあります。
よく耳にする言葉ですが「とにかく死ぬ気でやってみれば何かしたら答えが出る」など、聞いたことがあると存じます。

まだ、死ぬ気で死ぬことを考えていないということです。また、まだまだやることがあるのに、やる前にアクションが伴っていないということでもあります。

夢を持つことはとても難しいことです。また、夢を持ち、その夢に向かって走れる人もごくわずかです。

まず、未来のことを考えないことをお伝えします。さきのことを考えても誰にもそれは分からないからです。今を一生懸命ではなく、「一所懸命」に生きることが、未来を明るくします。

仏教には六道という輪廻説があります。
・天道
・人間道
・修羅道
・畜生道
・餓鬼道
・地獄道

仏教の開祖でありますお釈迦様は、「盲亀浮木」ということをお弟子に聞かれたときに言っています。この言葉は、お弟子さんが「人に生まれることは難しいことなんですか?」と、聞かれたときに答えている言葉です。

太平洋の中で、目の見えない亀が、海に浮かんだ木の穴から100年に一度、海面に顔を出すときに、その穴から顔を出すことができるのか?
普通で考えれば、そんなことできるはずがないです。
しかし、人間に生まれてくるということは、その穴に顔を出す以上に難しく、意味があって生まれてきているのだと。だからこそ、死ぬことを頭に浮かべるのではなく、生きることの意味を探求してみてください。
過去からすれば今は未来です。その現代がどのように作られ今があるのかを歴史などを少し見てみると、今の命を大切にしなければと考えが変わることもあります。

世の中はわるいことばかりではありません。面白い未来は必ず待っています。

合掌

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有り難し
おきもち

祈るこころに佛心が宿る。 変化多き時代を生きる私たちにできること、それは...
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「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

有り難し有り難し 6
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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
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病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

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死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ