無念さが時折邪魔をします … 。
余命宣告1年が 半年過ぎました。
仕事にケジメをつけ 退職し
自宅は介護ベッドと最低限必要なもの以外はすべて処分し
実家と病院の出入りで生活と治療を続けています。
老後にと貯めていた貯金で
両親の自家用車を購入し
実家の台所を全リフォームし
自分と息子の墓石 両親の墓石
そして
お寺で両親の戒名と私の葬儀のお願いを聴いていただき
余命1年の会計と財産分与をすませ
日々は
病院での治療日誌を毎日詳しく書きしたため
抗がん剤治療が出来なくなったあとの
ホスピスも手配ができたところです。
優しい息子 看病してくれる両親には
ただ ただ感謝しかなく
自分のできる範囲で余命生活を
共にしています。
病院関係では 主治医 緩和Dr看護師
整体 薬剤師 みなさんによくしてもらい
落ち着いて治療 療養できていますが
ガンの痛みと副作用は
容赦なく襲ってきて
毅然に生きていると思っていても
一人涙が溢れたり
どうしようもない無念さに
心が折れそうになります。
特に
発見前 今の主治医に
「ガンではないか!」と ひつこく受診し
薬服用しても効果ないと通院していたにも
かかわらず 大病院で受診したら
膵臓ガンだとわかった経緯は
どうしても許せなかった…のですが
大病院は遠方なので やむを得ず
ガンをみつけれなかった今の病院で
治療をすることになっているので
毎日 思わない日はありません
・・・速く見つかっていれば
手術できたり 治ったり
余命1年ってことはなかった・・・
と
そのキモチを収めるために
朝晩お経を唱え写経したりするのですが
痛さとの戦いのよぅです
医療麻薬のせいにはしたくはありません
この先
痛みと無念さに負けず
心穏やかに 自分らしく生きたい
そのためには
どんな心積もりでいるべきでしょうか
お知らせ下さい
疑っていたガン 始めの受診のときに発見されていれば 余命1年ではなかったかも と いう 悔しさ はがゆさ 無念さ
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
準備をしましょう
死後の、次の生のための準備をしましょう。
体が元気なうちは、過去や今現在の縁ある人々・生命に対して感謝の気持ちを持てるように、それをなるべく口や行動で表せるように努力するのはどうでしょうか。
行為は体で行うもの、言葉に出すもの、心に思うものの三種類ですが、行動や言葉や心のどれを先に気を付けても大丈夫です。心を先にしなくても、和顔愛語を心がけるだけでも、心も成長します。
身口意の行為が業(心)を作るので、残りの人生でどれだけ善業を積めるか、悪業になってしまうか、ゲームのようにやってみるのはどうでしょう。
人生では誰も死ぬことなんか考えていないのですが、病気などで先が見えるようになると、ゴールが分かりやすくなるのです。
痛みが出たら、その状態を観察します。どう動かしても痛い。動かさなくても痛い。体の状態を保持するだけで痛い。どうにもならないのですから、それを観察するしかありません。周りのことは放っておいて、その痛みを見るしかありません。
痛みが和らいだら、その状態を観察します。「あの痛みが薄らいで、今は耐えられる。体とは、痛みとは、こういうものか」とか、「この痛みだけをくれる体がなくなったら、心はどうなるのだろう」とか、考えてみても面白いと思います。
どちらも、死に向けての心の準備です。
生まれるときも、一人一人がやってきた大変な作業を、みんな忘れています。でもみんなやってきたのです。
死ぬときも、先に死んだ人はみんなやっていったあの大変な作業を、私もこれからやるのです。
心の準備をしていたほうが良いに決まっています。
生まれるときは、その後に、人間界での生が始まりました。
死ぬときも、その後に、何かが始まる可能性が高いでしょう。その心構えも、あると良いと思います。