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涅槃。
おはようございます。
修行をしてお悟りを開いて涅槃に入ります。
お悟りを開いたものの、肉体の寿命がありこの世に生きている状態を有余涅槃と言い、その肉体の寿命が尽きて無余涅槃になります。
そうすると、再び生まれ変わる事はありません。
私の場合は今の寿命のうちにそうした事は出来なさそうですし、生まれ変わりを繰り返して修行するとしても、生まれ変わった後に忘れてしまうので、非常に難しいと思います。
お念佛をとなえて、今生の寿命が尽きた後、寿命が尽きない極楽浄土へ往きそこでゆっくり修行したいと思っています。
消える事も出来ず生まれ変わりを繰り返さなければならないというのはつらいですね。
しかし、生まれ変わりから抜け出る方法があるという事と、同じくそうしたいと思っている人々がいるという事は、やりがいがあるようにも思えます。
それを言ってるあなたのアタマはどこにある。
目の前のものを観てごらん。
「ある」と思う時、そこにそれは「ある」。
「ある」と感じられ、心の中で「ある」と思われたからである。
そこに「あるもの」に対して「ない」と思ってみよう。
そこに「それ」はあるのに。「ない」と思う。
「ある」のに「ない」と思っても「ある」。
目に映っていない、存在もしないものに「ある」と思っても「ない」。
背中側を見てごらん。
そっちが映る。
電話が鳴る。
「ひさしぶり!」
話をする。
話に夢中になった。
どうでもよくなっていた。
そんなことも問うていないとき、それは「有無にわたっていない」。
「ありながらなきが如し」だ。
「ありながらない」のである。
そこで、私はあなたに問う。
あなたの言う その「ある なし」はどこで起こっていたのか。
「ある ない」を言っているそのものは誰か。その思いの口は何処にあるのか。
そこが動いているだけだ。
これからは文字通り、根拠のないことをあるだの無いだのは口にしても思ってもいけない。
根拠がないのだから。
それは人間の想像。想念。
覚者はその無明を打ち壊す。
人間は想念で元々無きものすらも描き出す。
それこそは元々「ない」。
私は見た事もないものを誰かによって「ある」と思い込まされない人間の一人である。
だからたとえ経典にあなたの言う「消滅」が記されていたとしても、私はだまされない。
「ない」ものをあると「思い込まされた」あなたの幻想。
それをこそ、まず消滅させるべきである。
あなたが、もともと無かったものを想定して、いつのまにか心の中で描き出していたことに気づくべきのでではないのだろうか。
あの世だこの世だ、天国だ地獄だ、消滅だ存在だ、死後の世界だ現実だ…。それを取り扱っているアタマはどこにある。
想念上の描かれたファンタジーワールドは、だれが作りだしたのか。
あるとかないとか言っているその口は何処にかあるのか。
あなたの意思や願いとは関係ないままに、それがただ、そうある。
あなたの魂だか意識だかがあなたの中でハッキリしていないことが一番問題。想念の海に溺れちゃいませんか?
シラフになるためにもリアルの世界で坐禅会に参加してあなたの意識や魂とやらを見極めてください。
考えるだけ無駄
あなたという一人の人間は亡くなるときがくるでしょう。
ですが亡くなって極楽浄土へ往生します。
娑婆には居なくなりましてもお浄土には確かにあなたはいるのです。
輪廻の輪の中で生まれ変わるとしてもあなたは完全なる消滅は致しません。
じゃあ消滅したいなんか考えても意味ないじゃない
どうせ考えるなら消滅せずとも今をどう生かされるべきなのかを考える方が建設的です、もし考えるのであれば限られた短い娑婆での人生、とりあえず終わって往生してから考えませんか?
質問者からのお礼
ありがとうございました。