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母親

回答数回答 1
有り難し有り難し 37

母親が怖いです。
子供の時から怒ると無視されたり
なんで何時も怒ってるのと聞くと更に怒鳴られました。ご飯入らないと言うと一週間口を聞いてくれませんでした。私が家から出ていきたいというと無視されました。姉二人います。母親のお世話大変などと言って出ていきました。なつぼんちゃん母親のことよろしくねと言って出ていきました。私は私の世界でずっと生きていきたいです。めんどくさいです。私はいつも家で母親の期限うかがっていきてきました。姉からも母親からのストレスがあるせいかブスやクズだと言われてきました。就職してリビングで寝てると母親に怒られるわ、もの投げられてくるわで疲れました。就職してまた社会人になる覚悟はありません。ただ普通に生きたいたいです。育ててやったのは誰だと思ってるんだ!?とも言われました。親には感謝しなきゃいけないと思いますが葛藤が出てきます。辛いです。3年前長女が亡くなりました。押し付けられたこともありましたが、私のことを想ってくれてる姉でもありました。何が何だか。めんどくさいです。眠れないし辛いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

母を救ってあげる気持ちを持つだけで大丈夫

👴👵おかわいそうにのゥ。ほんに、ほんに。
世のお母さんの中には我が子を愛せない人もおるんじゃぁ。別にアンタが悪いわけじゃねぇからな。よしよし。なでなで。ヨシヨシ👴👧💦👵カワイソウニネェ
アンタが立派になってかぁちゃん救っだれ。その気持ちを持つことじゃよ。そういう気持ちがあるだけで、アンタはもうお母さんの子ではあってもお母さんとは別な立派な人間性をもっていくようになるんじゃよ。そうすれば救われる。
あんたの母ちゃんが不機嫌大魔神だったのは、それは家庭の負の連鎖なだけじゃ。
ダンナさんと上手くいかなかったとか、上のおねぇちゃんたちの家事に追われてイライラしたりとか…家事だって向いてねぇ人、おるんよ。女の人だからって料理が必ずしもウメー訳じゃねぇだ。ウッチのカミさんもよ、いっつもクックパッド見て作るだよ。額面通りの調味料入れるからいつもしょっぱくなるだぁ。殺す気か。👴👵味覚は人によってチゲェだよ。それはカミさんの母や祖母があんまり料理やる人でなかったかじゃ。そんな感じでいびられたばぁさんが娘に当たってそれが母親になると子供に当たるとか。そういう生活レベルでの因縁ってあるもんだ。(*´Д`)
ばぁちゃん、ひいばぁちゃん、…ひぃひぃひぃばーちゃんの代のどっかしらで起こった負の連鎖があったりするもんですだ。
アンタのおかあさんも影響があってそうなったんじゃ。
子供っていうのは自然と父親母親から母性父性を求めるもんだが、どっかしらかけちまったか、不足があったのカモわかんね。
ウチもじーちゃんすんぐに死んじまったもんでよ?じっちゃん、ばっちゃんがいねーとよ?それはそれで色んな影響が出てくんだぁ。
かぁちゃんを責めたらあかん。アンタが苦しくなるからだ。憐れんでやることだ。
あんたのねーちゃんたちの言う通り、かぁちゃんがメンドクセ‐だけでアンタに罪はねぇ。誰か好きな人できたらいっぱいヨシヨシもらうことだヨ?愛の不足はちゃんと埋めてもらえっから大丈夫だ。それよりなによりアンタが子どもサできたときによ?いっぱい可愛がってやることだ。それで負の連鎖を解いてやることだ。それは今からできる。優しい心を持つことじゃ。因縁だの業だの昔っから我が家で続いている負の影響力ってのは、断ち切れるもんだ。変えられるもんだ。行動は毎日変えられるだ。今年は寺や神社で優しくなりますと願うとええだ。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

手の後がつくほどビンタされましたし逆さまにされて外に出されたこともあります。泣けてきます。神社でお参りしようと思います。

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