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食欲がすごいです

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食欲が旺盛で、いつも食べすぎてしまいます。

どうしたら、食べすぎないでいられるでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

原則はよく噛むことのようですね。

それと食べるものによって
もっと欲しくなるか、満腹中枢が満たされるか、変わるようです。
例えば同じ300gでも
ハンバーグ300グラム、ご飯300グラム、チーズ300グラム、豆腐300グラムじゃ、
お腹の張り具合も違います。

食べたい欲そのものをなくすより、何を主体に食べることで欲と折り合いがつくか。

私もダイエット&リバウンド経験ありなのであまり大きなことは言えませんが、
私も頑張ります。
びんさんも頑張ってください。

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有り難し
おきもち

hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

鼻炎持ちでは? 孤立感があるのでは?

私が食べ過ぎてしまう時の理由を考えてみました。
「何でこんなに食っちまうんだろう。」
①39年間自分が鼻炎持ちだとは気づきませんでした。
コルゲンコーワのプ二プ二したCMや鼻炎薬のCMはずっと他人ごとだと思っていました。
鼻が詰まっていると香りも感じませんので、いくら食べても物足りないです。
最近は食事前に鼻シュッシュをして通りを良くしてから、コップ二杯の水や炭酸水を飲むと食べすぎを防ぐ事が出来ることが判明しました。が、忘れていつもやっていないで結局ブーデーの丹下です。
10代でダイエットしたら30代で骨粗しょう症になってしまった人がいます。
10代は必要だからちゃんと食事をとった方がイイですよ。もちろん偏った食事はダメです。
周りのみんなが細いからと言ってあおられない方がイイでしょう。
ネットで男性の好みの理想体型と女性の理想体型を調べてみてください。全く違います。
女性の理想体型は男性でいうところの勘違い男らしさ、勘違いヒゲと同じくらいの理想の押しつけですから今日から無視してよいでしょう。
本当の共感者・理解者を持つと良いですよ。
あなたが理想としていることがあるでしょう。
それを共感している人と食事をすると量は減ります。
共感者がいないと孤独で口寂しくなって量が増えます。
食の満たされを求めているのは、他の事で満たされない何かを満たそうとしていると感じます。
あなたの理想を共感してくれる人、受け止めてくれる人、完全肯定してくれる人との出会いが、意外にも食欲を減らしてくれるような気がしますヨ。
人間「何を食べるか」よりも「誰と食べるか」で心は満たされますから。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
今まで一生懸命食べないようにしようとしていました。参考にします!

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