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疑心暗記になってしまいます。

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有り難し有り難し 16

もうどう生きていったら良いかわかりません。

私にとって人は皆敵で、自分を攻撃する存在です。

だから、自分を守ることに必死になってしまいます。

そんな自分は人と関わるべきではないとすら思います。なぜなら私には人の善意とか好意が分からないし、信じられないからです。

すぐに人の言葉を裏読みし、言われたことを素直に聞き取れず、悪意の言葉として捉えてしまいます。

そんな状態で人と関わるのは相手に対して失礼だと思いますし、勝手にしろって思われてしまっても仕方ないと思います。

自分が傷付かないために、そして、相手を傷付けないために自分は人と関わるべきではないのだと思います。

そして、自分でも上記の癖が分かっていながらもう何年も克服できずにいます。

何か自分に問題があってこのような状態になっていることはわかります。しかし、それが何なのか、どうしてこうなってしまったのか、この先どうしたら良いのかわかりません。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

疑心暗鬼の鬼って自分なんです。

👹泣く子いねがー。
なまはげってご存知でしょうか。
坊さんのことじゃありません。生ハゲ。禿げてません、剃ってます。
節分の鬼や、なまはげで怖がるのはお子さんです。
オトナって怖がらないでしょう。
同じ鬼をみても平気な人は平気。
ホラー映画でもそうですね。
怖くない人は平気なのです。
同じ現象・同じ状況にあっても、心が強い人は動じません。
それは心がパニクらない。ありのままの事実をそのままストレートに受け止められる力です。
それが心の強さなのです。
物事に負の意味を添えると本人の中で負の感情が生まれます。
それが鬼の障りです。鬼というものは外におるのではなくて、自身の揺れ動きやすい心なのです。なぐごいねが👹。
人のころ場を裏読みする、深読みする、騙されているんじゃないかと思うこと。
別に悪いことではありません。実際に世の中悪い人もいますから多少用心深い方がいいでしょう。人間は過去に嫌なことがあると自分の身を守ろうとします。仏教だってある種自分の身を守るための教えという面もあります。
心が打たれ弱ければ、すぐに凹み、傷つき、凹凹撃沈丸です。🚢
同じ言葉を受けても凹まない人がいるでしょう。
彼らはどうして凹まないのかといえば、わがことにしないからです。
取り込まない。上手にかわす。オフィシャルとして受け止めるからです。
私的な受け止めは自分を苦しめます。
公の受け止めは公務として受け止めますから凹みません。
仕事や道と言われる業界では先輩や師匠からのお叱りはむしろ励ましです。
公私混同の公というものをさらに超えた公というものがあります。
それは人間の考え方が付着していない世界のことです。
「私がこう思ったからこう」「自分的にはこう思うよ」という自分流の思い方がまったくないことです。
疑心暗鬼というものはコテコテに自分流の思い方を添えたものです。
私濃度を下げて公レベルを高めて接すると、私的な妄想は無くなります。
あなたは傷つきたくないはずです。
本当に自分に優しくするためにはあなた自身も自分の妄想で自分を傷つけないようにしなくちゃいけません。
人間は苦しむ最大の原因は実は自分の被害妄想や負の思い・ネガティブ意識なのです。
ものに勝手な意味を添えている自分に気づきましょう。
そこに元々なかった悪い意味を添えている鬼とは誰か。。。
その鬼をおさめるのもあなたなのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

アドバイスありがとうございます。

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