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彼氏と別れました

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有り難し有り難し 12

ありがとうございます。

1年半付き合った彼氏に11月後半に振られました。もともと恋愛の価値観はあまり合わなくて、それで私も不安になってしまい、お互いに疑心暗鬼な状態であったと思います
それでも会っていた時はお互いに幸せでした。
私が不安になることが多く、価値観の違いもあって考えることに疲れてしまい何度か別れや距離を置くことを提案したこともあります。
なかなか私も素直になれず、本当に向こうが会いたいのか、信じることができなくて、11月に入って、持病が再発してしまい不安は最高潮になってしまい、どうしてわかってくれないの!とキーケースを投げつけてしまいました。それが引き金で彼に別れを告げられました。そのあと話しましたが同棲や結婚を意識していたからこそ投げられたことがすごくショックだった、とのことです。

私は自分の性格の未熟さにとても後悔していて、今は直そうと見つめ直しています。彼とは趣味もあって、なにより私のことを好きになってくれたことが大きくて、もうこれ以上の人がいないと思います。
彼とは同じ職場なので、彼の笑顔を見たり彼に新しい彼女が出来ることを考えることが辛いです。

価値観の相違はありますが、それを受け止め、自分のしたことを見つめ直し、自分本位ではなく相手のことを考えて行動していこうと思います。
今まではどうしても自分のことしか考えられていなくて自分の目先の不安ばかり気にしていました。
別れてから、自分の性格を見つめ直して、直さなければいけない部分を冷静に考えました。

ですが、やはり相手の幸せということを考えると復縁を望むべきではないのではないかとも考えてしまいます。

ただ、別れてから彼のことが忘れられず、ご飯もあまり食べれてないてす。ただ職場でそんな姿は見せられないので笑顔で職場に通っています。
彼自身も痩せてしまっている気がします。

復縁を望むのは難しいでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

恋というのは自分を相手にしている姿かもしれません

人間はこの世に男性か女性の姿として現れて独自の性を生きてきます。LGBTも含めてそれぞれが独自の性を生きてきます。それぞれが独自の人生を生きてきます。
自分の世界観しかないのです。
女性は男性のことをよくわかりませんし、男性は女性のことをよくわかりません。
あなたが想ってる(思っている)彼というのはおそらくあなた越しの彼を見ていると思います。
あなたの脳内フィルター越しに眺めてる彼ですから、確実にあなたの思ったこと優先です。
お付き合いしていた時もおそらくそういう目線ではなかったでしょうか。
それは彼を見ていたのではなく、あなたの中の優先されている彼に対するイメージを相手にされていたのかもしれません。恋愛においてはよくこういう事が起こるものです。
自分越しの相手に対する理想像イメージ。
勝手な思い込みであったりするものです。
それはセルフ・インナー彼氏とでも申しましょうか。
自分の中の彼に対する自分だけの虚像なのです。だから相手が裏切ったり、こちらの予想外・想定外の行動をとると許せなくなったりするのです。
ちょっと、ここを何回か読み返して一度あなたの彼に対する幻をリセットした方がイイと思います。
人は相手よりも自分が頭で考えていることをの方に恋をしてしまっている場合があるのです。
恋から愛のレベルに高まりますと、相手の実物を相手にするようになります。
自分の中で思い描いている相手を相手にしなくなります。
あなたが相手にしてきた相手は誰でしょうか。
ひょっとしたら今も相手にしているのも、ずーっと「そっち」だったかもしれません。
これは多くの人が恋愛で陥るトラップです。
よくよく御点検されますよう。

幻滅は力なり。
相手に対する「自分の」独自イメージ・マイストーリーが崩壊する。
壊れた・滅したのは自分の脳内ワールド・脳内セルフストーリーだけ。
だから、失われた感があるのです。
本当は相手だってそこに居るのですから失われていません。
壊れたのは自分の幻想・思いだけです。
いっそのこと全部壊して幻滅してホントの現実に出会うべきでしょう。
新しく希望に満ちた心に目覚めますように。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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