hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

大事なモノと人生の幸福量

回答数回答 3
有り難し有り難し 55

こんばんは。
いつもご回答ありがとうございます。

私はいま20なのですが、今まで青春というものを送ったことがありません。

人それぞれ青春は違うものであるとは思っているのですが、大事なものがあるから頑張れる!とか、ここが私のいていい居場所などがまだ見つかりません。

そして、卒業してから今も受験勉強中で大学を狙っています。

この2年間何をしてもうまく行かなくて、ずっと悩んでいました。夜も、また落ちるんじゃないか、とか不安なことが多くて夜中までずっと起きてしまっています。

私は幼少期から、母がずっと入院したり、友達に騙されたり、いろんなことがありました。

そして、いまは受験勉強をしていて、このままでいいのかな、とか、この先何か幸せだって、大事だって思えるものに出会えるのか、不安です。

そこで、私のように自分に自信がない者でも、何か人生を変える出会いなど訪れる者なのでしょうか。
人生の幸福量は、幸せな人は幸せ、そうじゃない人はずっとそのまま、なのでしょうか。

気づき、や、少しの事にも感謝することで人生は幸せになるものだとも思っています。

青春を送れなくて、いま青春コンプレックにも陥っています。

ご回答よろしくお願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

今を一生懸命生きることで見つかるモノもあります!

質問読ませていただきました。

少し私のお話をさせていただきますね。
私は13歳で実父を師匠として出家しました。そこから厳しい修行などが毎日あり、友人と遊ぶヒマはありませんでした。もちろん彼女を作る時間なんて全くありません。修行以外に唯一許されたのは、勉強して高校受験、大学受験をすることくらいでした。ですので、修行の辛さを紛らわすためにも、他の時間は勉強をしてました。
その間に父と母(師匠と奥さん)の離婚、毎日兄弟子からの厳しい仕打ちを受ける、といった生活でした。
大学受験は、ありがたいことに師匠に2浪させていただき、そこそこのところに行かせていただきました。

自分にある程度自由な時間が許されたのは、修行を重ねて一人前の僧侶として認められる儀式を受けた後でした。年齢にして25歳くらいでしょうか。
そう考えると、nextstageさんがおっしゃられる「青春時代」というのは、何のおもしろみも無いものだったでしょうし、何か目指すものや大切なものがあったわけではありません。
お寺の息子としてうまれたので、言われるがままお坊さんになっただけです。

さて、こんな生活をしていたわけですが、現在は今までの経験を活かして一生懸命生きようと思えています。
両親の離婚で悩まれてる人には私の経験からお話しできますし、受験で悩んでる人にも、青春時代を楽しめなかった人も、他にも色んな私の経験からたくさんの人にお話をさせていただくことが出来ます。それによって救われたと言って下さる方も、たくさんいらっしゃいます。
このような現状に、私はとてもありがたいと思って満足しております。幸せかと聞かれましたら、自分のやりたいことの形が見えてきて、少しでも多くの人の助けになれる現状に自信をもって「幸せ」だと答えることができるでしょう。そして、そう思えるようになったのは30歳を過ぎてからです。

このように、今までいいことがなかったとしても、その経験があなたの助けになります。今を一生懸命生きることで、それが未来に繋がり、生きる目標がそこから見つかるかもしれません。
それに幸せの量なんて決まっていません。今ある周りのもの全てに感謝できるのであれば、幸福量は無限大です。どれだけお金を持って充実した生活をしても、それに満足すること無ければ幸せはいつまでたっても訪れません。

何か少しでも参考にしてみて下さいね。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
京都府・大阪府・奈良県の県境に当たる、京都府京田辺市の天王院というお寺でお勤めさせていただいております。山手の方にある、自然に囲まれた日蓮系宗派のお寺です。 13才から僧侶となり、たくさんの方と関わってきました。 現在は42才となり、3人の子育てに奮闘中です!また、教育関係の仕事にも勤めたことがあります。 自分の経験したこと全てが私自身の糧となり、それが人を救う力になればいいなと、何があってもポジティブに考えるようにしてます。 その経験を活かし、 ・人間関係 ・将来の不安 ・仏事全般 など、様々な質問に答えていきたいと思っております。 何か悩み事がある、個人的に相談したい、質問について他の人に知られたくない、という方は遠慮なくメールにてご相談下さい。 今までにたくさんの方からメールにてご相談をいただいておりますので、気軽にご相談してみて下さいね! また、ハスノハの回答には字数制限があり、私の回答に対するお礼に返事が出来ない場合も多々あります。ですので、返事を望まれる場合もメールにてご連絡下さい。 メールアドレスは下記をご参照下さい。 一両日中に返事をするようにしておりますが、こちらからの返事が届かない場合は、 ・メールアドレスを間違えていないか ・受信拒否設定はどうなっているか を確認して、もう一度メールを送っていただければありがたく思います。 また、お寺に直接訪問されてのご相談も受け付けております。その場合は、まずメールか電話にてその旨をお知らせ下さい。 お寺の予定と照らし合わせて、日時を調整させていただき、お寺の詳しい場所などをお伝えいたします。 ただし、電話回線が1本しかないこと、他の法務の電話が多いことから、失礼ながら電話での悩み相談は承っておりません。 直接お寺に参詣されての相談か、メールにての相談に限らせていただきます。 また、直接お寺に参詣されての法事や、ZOOMを通じての法事なども受け付けておりますので、希望があれば何でもご相談ください。 メールアドレス joukai4378+soudan@gmail.com 電話番号 0774-65-0161
法事や行事がなければ、平日・休日共に 9:00~12:00 14:00~17:00 の時間帯で相談できます。 土曜日や祝日の前の日なら、お寺の予定が何もなければ 21:00~ でも相談できます。 他にも調整できる場合もあるので、お問い合わせください。 人に話をしたり言葉に出すことで、気持ちが晴れたり、考えがまとまったりすることもあります。 どうぞ遠慮なくご相談ください。

先立つものを捨ててみる

責任感がお強いのでしょうね。
常にこれをしなければという事に縛られてきたのであろうと思います。
お疲れさまでした。
青春というのは学生時代だけではなく、自分の目が開いていればいつも青春です。
自分の目が開くという事は、先立てている自分の無い事です。
人生は経験の連続ですから、嫌なことがあると守りが入ります。
前回と同じようなひどい目にあうんじゃないかという先立つ思いが起こるのです。
それを一度捨ててみることです。
たとえは悪いですが、家族で夏に近所のラーメン屋に行きまして。
そこでみんな腹壊したんですわ。
そこからそのラーメン屋には行っていません。
そこを通るたびにまた腹壊すんじゃなかろうかという思いが先立ちます。
ですが、それはその時だけの事。
今日も腹壊しラーメンを売っていたら営業になりません。
人間は過去データを優先させていることがあります。
本当は現場に行ってみれば新しい出会い、新しい世界が待っているのに、自分の脳内ばかりを相手にしてしまっているのです。
それは優先すべきものを間違っています。
一度、そこを意識して、脳内ファーストではなく実物ファーストな生き方を選択してみるとよいでしょう。きっと、さぞかし素晴らしい世界が待っていることでしょう。
脳は自分で変えられるのです。
あ、でも、私はあのラーメン屋はどのみち行きませんがね。(笑)
別のより幸福量の高いラーメン屋で青春が始まっていますので。

結論 被害者意識にとらわれない。同じお茶を飲むのであっても今、新たに味わってみる。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

青春コンプレックス?

なんだこの言葉は。「青春コンプレックス」。以前、他の質問者さんがこの言葉を使っていらっしゃって、私は感じました。何だろうこの違和感。それが今、ハッキリ分かりました。

青春って、言うほどキラキラしてませんよ。

私の大学時代は、背中から追いかけられているような得体の知れぬ焦燥感に駆られていました。その焦燥感を何とか振り切ろうと行動し、その行動がまた「本当にこれでいいのか?」という焦燥感を呼んでいました。その無限ループで狂ったように勉強し、バイトし、ゲームしました。

昔よくいた「つっぱり」とかヤンキー。いわゆる非行少年だって、家庭だったり学校だったり、何かしらの心理的な抑圧から反発してたんです。
今で言えばSNSの「イイね」がその抑圧を埋めるものとして取って代わっているのではないかなと思います。
一見、キラキラしているような人も、キラキラしている自分を演出することで、そういう抑圧を誤魔化そうと無意識でしている人が多いんじゃないかなぁ。

じゃあその抑圧って具体的に何?っていうと、それは悩んでる本人にも分からないことが多いんですよね。限りなく大人に近付いているけれど、大人でもない。ちょうど身長がグングン伸びていると骨が痛む成長痛のように、心がグングン大人になっている中での、心の成長痛なのかもしれません。そういう痛みを持つ人は皆、どんなに上手く隠していても本心では自分に自信を持っていないものです。

あなたの場合、受験や過去の体験という分かりやすい要素があるために、かえってそれらのせいに出来てしまっているのかもしれませんね。
でも、青春って、そんなにキラキラしてませんよ。鬱屈としています。青春とは、コンプレックスなのです。それでいいんです。
自分を「こうあらねば」と縛らず、否定せず、肩の力を抜いて、目の前のことを1つ1つこなしていきましょう。いずれ時期が来れば、「そう言えばそんなこともあったな。いつの間にか忘れてた」ってなるものですよ。大丈夫。受験、頑張ってね。

{{count}}
有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

質問者からのお礼

藤川さま
お返事遅くなり申し訳ありません。私はいつも先ばかり見て、いまを生きていないところがあるとおもいます。藤川さまのお話を教えていただいて、すごくこころが楽になりました人の役に立てるようなことをしたいっておもいました。そして、一生懸命いま生きれるように頑張りたいとおもいました。わたしが藤川さまに教えていただいたみたいに、わたしも人が心が軽くなる話をできる人になりたいとおもいます。
ありがとうございました。

安隠寺さま
お返事遅くなり申し訳ありません。責任感は確かに強い方で、何かしなければといつも思っていたかもしれません。それを、いま第三者のお坊さまから言っていただいてやはりそうだったのだときずくことができました。
そうですよね、いつでも自分が楽しければ青春ですよね。今年は、何かチャレンジして、苦手だったもの克服してみようとおもいます。ありがとうございます。

大慈様
私は枠にはめられた生き方で生きていたのかもしれません。ちょっと、映画の世界がキラキラしていてあーなりたかったな!とおもっていたところでした笑。みんな青春ってゆう青春はないんだなってちょっと安心しました。
これから、年も開けたのでアンテナ張り巡らせたいとおもいます。ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ