大事なモノと人生の幸福量
こんばんは。
いつもご回答ありがとうございます。
私はいま20なのですが、今まで青春というものを送ったことがありません。
人それぞれ青春は違うものであるとは思っているのですが、大事なものがあるから頑張れる!とか、ここが私のいていい居場所などがまだ見つかりません。
そして、卒業してから今も受験勉強中で大学を狙っています。
この2年間何をしてもうまく行かなくて、ずっと悩んでいました。夜も、また落ちるんじゃないか、とか不安なことが多くて夜中までずっと起きてしまっています。
私は幼少期から、母がずっと入院したり、友達に騙されたり、いろんなことがありました。
そして、いまは受験勉強をしていて、このままでいいのかな、とか、この先何か幸せだって、大事だって思えるものに出会えるのか、不安です。
そこで、私のように自分に自信がない者でも、何か人生を変える出会いなど訪れる者なのでしょうか。
人生の幸福量は、幸せな人は幸せ、そうじゃない人はずっとそのまま、なのでしょうか。
気づき、や、少しの事にも感謝することで人生は幸せになるものだとも思っています。
青春を送れなくて、いま青春コンプレックにも陥っています。
ご回答よろしくお願いします。
性格は、起こってもいないことを考えてしまう取り越し苦労タイプで、友達とはどこまでの人を友達と呼んでいいのかわからないとよく考えてしまいます。もっと毎日を充実させたいし笑っていたいって思っています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
今を一生懸命生きることで見つかるモノもあります!
質問読ませていただきました。
少し私のお話をさせていただきますね。
私は13歳で実父を師匠として出家しました。そこから厳しい修行などが毎日あり、友人と遊ぶヒマはありませんでした。もちろん彼女を作る時間なんて全くありません。修行以外に唯一許されたのは、勉強して高校受験、大学受験をすることくらいでした。ですので、修行の辛さを紛らわすためにも、他の時間は勉強をしてました。
その間に父と母(師匠と奥さん)の離婚、毎日兄弟子からの厳しい仕打ちを受ける、といった生活でした。
大学受験は、ありがたいことに師匠に2浪させていただき、そこそこのところに行かせていただきました。
自分にある程度自由な時間が許されたのは、修行を重ねて一人前の僧侶として認められる儀式を受けた後でした。年齢にして25歳くらいでしょうか。
そう考えると、nextstageさんがおっしゃられる「青春時代」というのは、何のおもしろみも無いものだったでしょうし、何か目指すものや大切なものがあったわけではありません。
お寺の息子としてうまれたので、言われるがままお坊さんになっただけです。
さて、こんな生活をしていたわけですが、現在は今までの経験を活かして一生懸命生きようと思えています。
両親の離婚で悩まれてる人には私の経験からお話しできますし、受験で悩んでる人にも、青春時代を楽しめなかった人も、他にも色んな私の経験からたくさんの人にお話をさせていただくことが出来ます。それによって救われたと言って下さる方も、たくさんいらっしゃいます。
このような現状に、私はとてもありがたいと思って満足しております。幸せかと聞かれましたら、自分のやりたいことの形が見えてきて、少しでも多くの人の助けになれる現状に自信をもって「幸せ」だと答えることができるでしょう。そして、そう思えるようになったのは30歳を過ぎてからです。
このように、今までいいことがなかったとしても、その経験があなたの助けになります。今を一生懸命生きることで、それが未来に繋がり、生きる目標がそこから見つかるかもしれません。
それに幸せの量なんて決まっていません。今ある周りのもの全てに感謝できるのであれば、幸福量は無限大です。どれだけお金を持って充実した生活をしても、それに満足すること無ければ幸せはいつまでたっても訪れません。
何か少しでも参考にしてみて下さいね。
先立つものを捨ててみる
責任感がお強いのでしょうね。
常にこれをしなければという事に縛られてきたのであろうと思います。
お疲れさまでした。
青春というのは学生時代だけではなく、自分の目が開いていればいつも青春です。
自分の目が開くという事は、先立てている自分の無い事です。
人生は経験の連続ですから、嫌なことがあると守りが入ります。
前回と同じようなひどい目にあうんじゃないかという先立つ思いが起こるのです。
それを一度捨ててみることです。
たとえは悪いですが、家族で夏に近所のラーメン屋に行きまして。
そこでみんな腹壊したんですわ。
そこからそのラーメン屋には行っていません。
そこを通るたびにまた腹壊すんじゃなかろうかという思いが先立ちます。
ですが、それはその時だけの事。
今日も腹壊しラーメンを売っていたら営業になりません。
人間は過去データを優先させていることがあります。
本当は現場に行ってみれば新しい出会い、新しい世界が待っているのに、自分の脳内ばかりを相手にしてしまっているのです。
それは優先すべきものを間違っています。
一度、そこを意識して、脳内ファーストではなく実物ファーストな生き方を選択してみるとよいでしょう。きっと、さぞかし素晴らしい世界が待っていることでしょう。
脳は自分で変えられるのです。
あ、でも、私はあのラーメン屋はどのみち行きませんがね。(笑)
別のより幸福量の高いラーメン屋で青春が始まっていますので。
結論 被害者意識にとらわれない。同じお茶を飲むのであっても今、新たに味わってみる。
青春コンプレックス?
なんだこの言葉は。「青春コンプレックス」。以前、他の質問者さんがこの言葉を使っていらっしゃって、私は感じました。何だろうこの違和感。それが今、ハッキリ分かりました。
青春って、言うほどキラキラしてませんよ。
私の大学時代は、背中から追いかけられているような得体の知れぬ焦燥感に駆られていました。その焦燥感を何とか振り切ろうと行動し、その行動がまた「本当にこれでいいのか?」という焦燥感を呼んでいました。その無限ループで狂ったように勉強し、バイトし、ゲームしました。
昔よくいた「つっぱり」とかヤンキー。いわゆる非行少年だって、家庭だったり学校だったり、何かしらの心理的な抑圧から反発してたんです。
今で言えばSNSの「イイね」がその抑圧を埋めるものとして取って代わっているのではないかなと思います。
一見、キラキラしているような人も、キラキラしている自分を演出することで、そういう抑圧を誤魔化そうと無意識でしている人が多いんじゃないかなぁ。
じゃあその抑圧って具体的に何?っていうと、それは悩んでる本人にも分からないことが多いんですよね。限りなく大人に近付いているけれど、大人でもない。ちょうど身長がグングン伸びていると骨が痛む成長痛のように、心がグングン大人になっている中での、心の成長痛なのかもしれません。そういう痛みを持つ人は皆、どんなに上手く隠していても本心では自分に自信を持っていないものです。
あなたの場合、受験や過去の体験という分かりやすい要素があるために、かえってそれらのせいに出来てしまっているのかもしれませんね。
でも、青春って、そんなにキラキラしてませんよ。鬱屈としています。青春とは、コンプレックスなのです。それでいいんです。
自分を「こうあらねば」と縛らず、否定せず、肩の力を抜いて、目の前のことを1つ1つこなしていきましょう。いずれ時期が来れば、「そう言えばそんなこともあったな。いつの間にか忘れてた」ってなるものですよ。大丈夫。受験、頑張ってね。
質問者からのお礼
藤川さま
お返事遅くなり申し訳ありません。私はいつも先ばかり見て、いまを生きていないところがあるとおもいます。藤川さまのお話を教えていただいて、すごくこころが楽になりました人の役に立てるようなことをしたいっておもいました。そして、一生懸命いま生きれるように頑張りたいとおもいました。わたしが藤川さまに教えていただいたみたいに、わたしも人が心が軽くなる話をできる人になりたいとおもいます。
ありがとうございました。
安隠寺さま
お返事遅くなり申し訳ありません。責任感は確かに強い方で、何かしなければといつも思っていたかもしれません。それを、いま第三者のお坊さまから言っていただいてやはりそうだったのだときずくことができました。
そうですよね、いつでも自分が楽しければ青春ですよね。今年は、何かチャレンジして、苦手だったもの克服してみようとおもいます。ありがとうございます。
大慈様
私は枠にはめられた生き方で生きていたのかもしれません。ちょっと、映画の世界がキラキラしていてあーなりたかったな!とおもっていたところでした笑。みんな青春ってゆう青春はないんだなってちょっと安心しました。
これから、年も開けたのでアンテナ張り巡らせたいとおもいます。ありがとうございました。