言霊と「嘘も方便」
はじめまして、質問させていただきます。
うまく纏まらないですがお許しください。
昔から言霊はあると信じていました。
しかし、
嘘から出たまことという言葉があるように
ついた嘘が言霊によって本当になってしまうのではないか?と最近思うようになりました。
ただ、嘘も方便というように
時と場合によっては嘘もつく必要があるのではないかなと思ってました。
例えば、自分の身を守るために嘘をついたことが実際には起きてほしくなかったことを引き起こした…のようになると相反する言葉になりますよね。
その場合、どちらが優先されるといいますか
言霊の方の力が強いのか、嘘も方便の方の力が強いのか…と考えておりました。
どのようにお考えになりますでしょうか。
お教えいただけますと幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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仏教ではどう考えるか
ご相談拝読しました。
カテゴリで「運命・見えない力」というものを選んでいただいておりますが、実際にはそういうことではないのですね。いや、少なくとも仏教においてはそうは考えないということになります。
言霊とか引き寄せの法則とかそういうことはないということです。
では「嘘も方便」とは何かというと「方便」というのはもともと「近づく」とか「到達する」といった意味なのです。つまり「真理に近づくための手段・手立て」ということになります。
だから「嘘」ということではなく、悩み苦しみの中で周りが見えなくなってしまっている方に真理に到達してもらうために巧みな表現を取られたお釈迦様の説法のことを言うのです。
そして仏教では「言霊」ではなく「口業(くごう)」といいます。「業」というのは行為の意味ですが、それだけでなく「後にも影響を及ぼすもの」というような意味をも含みます。
つまり、「自分で口にした言葉によって自分が心理的に影響を受ける」ということは仏教でも考えますが、言葉のみによってそれが実現するとか、何者かに運命を支配(引き寄せ)されるとかそういうことではないのです。
たしかにこの社会で現実的に生活をしていく様々な場面では思ってもいないことを言わざるを得ないようば場面も多々あることでしょう。それが自分で嘘を言っているように感じ苦しいこともあると思います。
だからこそ身口意の三業(何を為し、何を語り、何を思うか)を清くととのえましょうと仏教では教えます。
そしてそれだけでなく、そうはできない自分の身を明らかに知らせつつ、それでも救うぞと私たちをどこまでも包み込んでくれる教えもあります。
とにかく、
>言霊の方の力が強いのか、嘘も方便の方の力が強いのか
ということではありません。何かそういう運命的なものが実体的にもたらされるということではないのです。
あくまでもこの私の心に影響が生じ、その影響から行動にも移っていくことが有り得るという心作用としてお考え下さい。
「嘘も方便」とは、相手を思って使う嘘の事であり、自己保身のための嘘は方便でもなんでもありません。それは弁解であり言い訳です。そのような言葉は発するべきではありません。
上記のように考えると、「方便としてついた嘘」というのは常に温かいものであるはずで、言葉としての力も強いと思います。例えば入院中でやせ細ってしまった人に、「今日は顔色がいいね。少しふっくらしてきたみたい」と言うことで、本人が元気づけられ、本当に顔色が良くなりふっくらしてくる可能性はあります。
ご質問の内容は、自己保身のために何か嘘をついた、という事かな?
例えば、「今日は親戚が亡くなったので学校休みます」みたいな事を言ってしまって、本当に親戚が死んでしまうのではないのか、といった感じでしょうか?
この場合、この嘘によってあなたの親戚の命が奪われる事はないでしょう。でも嘘がばれたときにあなたの信用はガタ落ちでしょう。
つまり、言葉の力は、うそもまことも同じだけの力を持っていて、他人のためについた嘘は相手を幸せにする力となり、自分のためについた嘘は最終的に自分自身にふりかかる力をもっている、といえましょう。